執拗に松本人志問題を報じ続けるマスメディアの違和感(文・沖田臥竜)
ファンもアンチもすまぬ。事実だからこういう表現をうっかり使ってしまう正直者の私を許してあげて欲しい。無能なコメンテーターも含めて勘違いしている事が、文春が報じる松本人志問題で一点ある。それは文春編集部が1番理解していることなのだが、松本人志問題を報じることで、文春だけが私腹を肥やしているように誤解されているが、それは間違いである。
文春が1番最初に年末の合併号で報じた松本人志問題のとき以外、実は全く松本人志問題は売れていない。曲がりなりにも、私も週刊誌2誌で仕事させてもらっているので、文春を含めて他誌の売れ行きくらいは把握している。それなのに、文春だけはひたすら松本人志問題を報じ続けている。
それはなぜか。文春が作りあげてしまった体質。歯向かってきたら、降伏するまで徹底的に相手を叩きのめすーというスタンスがもたらしてしまっていることが原因なのだ。
悪いがそれを作りあげてしまったのは何も文春側だけではない。あくまで読者あっての週刊誌だ。文春砲などといって、それを望んでしまった世論にも問題があった。有名人のスキャンダラスにより刺激を求めてしまい、結果、次第にそれがエスカレートしていってしまったのだ。
もちろん私はそれを完全否定している訳ではない。週刊誌の苦労だって知っているし、それが仕事なのだ。全てに理解されなくても、それを仕事にしている以上、スクープだって突き刺さなくてはならない。だが、それはあくまで生産性や公益性があってこそのものでなくてはならないのではないか。
ネタ的に売れておらず、法務案件となり係争中の松本人志問題を週刊誌で報じ続けることに、社会的意義が本当にあるのだろうか。
芸能人といえどもあくまで人間である。1人の人間を社会的に抹殺しようとする報じ方は、私は間違っていると思っている。
A子さんの主張が全て正しいのかどうかは、誰にも分からない。今回のように、心の中では本当は恐怖を感じていたいう主旨の発言になれば、尚更、他人の分かる領域ではない。
しかし文春は、そのA子さんの証言に絶対的な信頼を寄せ、記事化させているのである。
たとえ記事が売れてなくてもだ。その姿勢は意地になっているとしか思えないのだ。だからこそ、読者の関心が薄れているのではないだろうか。
だが、繰り返し文春が報じることで、松本人志氏に貼られたレッテルは、そう簡単に消えることはない。被害者と加害者を決めるのは、世論の風潮ではない。それは司法が判断することだ。それがなければ、被害者と加害者が逆転してしまう恐れもあるのだ。だからこそ、両方の意見をしっかりと聞いて原稿を作るのが、記者に与えられた週刊誌ジャーナリズムなのである。
SNSがこれだけ普及されたこの時代に、Xを再開しただけで、ここまで話題になり続ける人物が松本人志氏以外に果たしているだろうか。それは世の中が松本人志氏を求めている証だとも言えるだろう。
私は過去に世間に知られていないだけで、スクープも随分とブチ込んできた。
私の場合、仕事だからだけではなかった。そこにはそれ以外の理由が必ずあった。人の人生と対峙するのである。生半可の覚悟ではやってこなかった。そしていつも後に襲われるのは虚無感であった。間違ってもそこに正義だのと言って、自分を誤魔化すようなことはしなかった。
今すぐにでもスクープを撃つことはもちろん出来る。このガキめ!と頭に来て思い知らせてやりたい衝動に駆られることもある。やって見せなければ分からないことも確かにある。だが私はやらないだろう。仕事の幅が広がり、同じペンを振るうならば、刺しこまれた側で戦っていたいのだ。そして人を裏切るようなことだけは、例え損をしても私はしないと決めている。
もちろん断然に不利な戦さである。でも、自分のペンで人が不幸になることに加担するよりも、よく言ってくれた!と言われる方が、今の私には書き手冥利に尽きると思っている。
私はコンサルティングの会社も経営しているので、簡単に判断できるのだが、今の松本人志氏のXでの投稿はうまい。
出来ればあれを始めからやっていれば、文春も記事に挿し込むことができなかっただろう。浜ちゃん人形を投稿しやがって!と記事に挿し込み読者に共感を得ることなんて出来ない。ということは、Xの投稿で料理できない状態になっているのだ。
裁判を取り下げれば、松本人志氏が芸能界を引退すれば、文春サイドは満足なのだろうか。それとも今後も松本憎しと報じ続けていくのだろうか。それで部数が伸びていないというのにだ。
もう良いのではないか。Xの投稿を見ても、世間はダウンタウン松本人志を必要としている。それは私も同じだ。理不尽な扱いで、松本人志という天才をTVから失ってはならない。
(文・沖田臥竜)