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人、世間の見方を変えた言葉
「石火の光中に、長を争い短を競う、幾何の光陰ぞ。
蝸牛の角上に、雌を較べ雄を論ず、許大の世界ぞ。」
(訳) 石火にも似たこの短い人生にありながら、人はつまらないことで長短を
争っている。いったいどれだけ生きられるつもりなのか。
また人は、まるでカタツムリの角の上のような狭い見地に立って、
優劣を競っている。そもそも、人間の住むこの地上など、いったい
どれだけ大きいというのか。
『菜根譚』後集十三 諸橋轍次「中国古典名言事典」講談社学術文庫 より
上にある言葉は、私が地元市役所の職員時代(特に退職までの2~3年)、自分の机の見える所に置いて何とか自分を奮い立たせ、支えにしていたものです。
特に太字部分は最初読んだとき、頭をガツンと何かで強打された感じがしました。「わかっているのかお前!」と。
苦しさと辛さの中、毎日眺めては心を落ち着かせようとしていました。
そしてそれは、自分なりの人生観を考えるきっかけになりました。
次第に、人間関係の苦しさなどが無くなってきつつあり、また自分の人生で本当に大切なものを考えられるようになっていきました。
(僅かながら、柔軟に物事を考えられるようにもなったと思います。)
嫌な事があったら、逃げる。周囲に文句をまき散らす。そうしていれば確かに楽です。けれども楽して得られるのは貧と恥のみ。
苦しいけれど、いかに自分と向き合えるか。
ゴールを見据え、一直線に脇目も振らず進めるか。
「自分に残された時間はあとどれくらいか」と考えるようにもなりました。仮に生きられるのが、あと半年だったら。一か月だったら。一日だったら。そう考えると、急に怖くなってきたのです。時間は刻刻と過ぎてゆきます。
他人の悪口、嫌味を言っている時間。周囲に不平不満をまき散らす時間。
その一分一秒がもったいない。やらなければいけないことを後回しにし、気が付いたら手遅れだった。こんな惨めなことはありません。
周りに惑わされ、自分自身に全集中出来ていなかったことが、恥ずかしく思えてきました。本当にその通りで、退職した今でも菜根譚の言葉を読むたび、頷くばかりです。
残された時間を、常に「自分はどうしたいか」を問い続け、自身の成長のために費やして行けたらと思っています。