#弁論 を受けて

【1月15日まで】こたけ正義感の『弁論』

殺人犯はそこにいる (新潮文庫) : 清水 潔

殺人犯はそこにいる / 法務図書WEB

昔、表紙につられて買った本が冤罪事件の本だった。実際それは帯なんだが、それの内容もろくに読まずに中身を読んだから、途中までちょっと変わった小説くらいに思っていた。
その冤罪事件も、捏造証拠と圧迫長時間取り調べの末の自白による死刑判決で、昔ってそんなんばっかなんだなと弁論も見て思った。
袴田事件も事件そのものとしては無惨なものだと感じるが、足利事件は別ベクトルに酷い事件で、当時の自分が読むにはちょっと刺激が強すぎるのでは、と今では感じる。

冤罪事件の嫌なところは、無実の人間に実刑が下ることももちろん、真犯人が野放しになっているのが一番だと思う。『殺人犯はそこにいる』も、そこに焦点が当てられていた。こたけ正義感は"弁護士"という立場から、無実だった被告人への謝罪をするべきか否かという話に触れていた。
法に触れることのない自分たちに一番関係するのは、本当に犯罪を犯した奴が隣を歩いているかもしれないという事実。ただ、これは事件の有無に限らずとも、例えばイライラしていた人間にたまたま暴力を振るわれるとか、乗っていた電車が事故を起こすとか、そういう話にもなる。事件として取り上げられていない、まだ判明していない事件だってきっとあるだろう。冤罪事件がなくとも、自分たちはいつでも危険と隣り合わせだと考えられる。

法律は難しいと感じる。
司法などの手続きは、きっと複雑で時間がかかるのだろう。だからこそ、一つの事件に何十年もかかったりする。素人としては、これがもっと簡単になればもっと早く無罪判決が下ったかもしれないのに と思うが、そのままいくと逆転裁判みたいな世界になってしまうかもしれない。
法律も手続きのルールも、賢い大人達がみんなで集まって考えたから今までルールとして生き残っているのだと思う。素人がルールに文句をつけるべきではない。

昔の冤罪事件で行われていた、圧迫的な取り調べや捏造証拠について考えてみる。
当時の警察官や検察がその意思を持って行っていたはずだが、どんな意思があったのか。
多分、面倒だから早く終わらせようとか、どうでもいいからコイツが犯人でいいだろとか、そういうんじゃないと思う。
本気でコイツが犯人なんだと思い込んでいて、その犯人がスムーズに逮捕されるようアシストしようとか、そういうことなんじゃないかと思う。あとは、当時の雰囲気とか。
『弁論』では袴田事件で行われた取り調べの時間が見せられたが、16時間なんか取り調べされる方はもちろん、する方だって大変だったろと思う。交代交代だったのかもしれないが、だとしてもずーっと怒鳴ったり殴ったりするのは、絶対に疲れる。
自分が取り調べを行う立場だったとしたら、「こいつが自白すれば事件が解決する!」と思い込んでいただろう。実際そんなことはないんだけど。
そういう正義感があったんじゃないかと、自分は感じる。
みんながみんな、悪いことしようと思ってやってるわけじゃないと、だったら良いなと思う。
そしたら、みんなの中の正義感がもう少しいい方向に向けば、この世はもっと良くなると思うから。

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