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私にはわかりません 完

それにしても

と、アパートの大家である木崎祥子は白いものが混じる髪を弄くりながらため息をついた

礼儀正しくて好い人だと思ってたのに、わからないもんねえ…

5月分の家賃が振り込まれず、携帯にその旨を連絡するも一向に本人が出ない
仕方がないので保証人である吉田彰さんの両親に連絡を取ると、彼らもまた息子と音信不通になっているという
会社もまた、彰を探していると彼らは不安げに語った
連絡がつかないままなのは仕方がないが、この状態が3ヶ月続くと強制退去してもらうことを告げると、両親は構わないと言った

まぁ常識的な親御さんで助かったわ
ひとまず家賃を入れてくれると約束してくれたしね

吉田さんの部屋の鍵を取り出し、開ける

まさか…自殺なんてないわよ…ね

埃くさい部屋の匂いに、不審なところはない
ひとまずホッと安堵した

内心恐れていたゴミ屋敷化ということもなく、部屋はスッキリと片付いている
風呂場、トイレと見回り…リビングに差し掛かると、奇妙なものが床に広がっている

古新聞?…の上にリュック?

古新聞が敷き詰められた上に、くたびれたリュックが鎮座している
それは部屋の無機質とも言えるインテリアにまったくそぐわない異質な存在感を放っていた
リュックのそばには綺麗に畳まれた服
吉田さんのものだろうか

祥子は本能的に「それら」から良くないものを感じ、無意識に両手を自分の身体にまわした
大家を長年やっていれば、稀にそういう関わってはいけない空気を感じることがある

祥子はそれらに一切触れることをせず、見ることさえせずに、リビングを見渡した

あれは…

部屋の片隅に投げ出されたようにスマートフォンが転がっている
見た途端、身体に震えが走った
したたか誰かに殴られたかのような衝撃
黒い画面を上に向けたまま静かに佇むスマートフォン自体が、災害そのものの禍々しさで覆われている
部屋が急激に冷たくなったように、影が射したように
身体の奥がここに居ることを拒否した

あれは…だめ
見てもだめ
はやく、手遅れにならないうちにはやく、逃げなきゃ

祥子は目を逸らし、そそくさとリビングを出ると小走りで玄関から飛び出した
小刻みに震える手を手で押さえつけ、ようやく鍵が回ったとき安堵のため息をつく

一体全体、あの人は何を持ち込んだの
あれはなんなの

青ざめた唇から長いため息が漏れ、静かに悟った

恐らく、2度と彼に会うことはないだろうと

生きている彼にはなおさら

私は、何も知りたくないわ

祥子は振り返りもせず、ゆっくりと歩きはじめた




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