芋虫(没)
自分の姿すら見えない、どこまでも続く暗闇の中で、私はぽつんと横たわっていた。
何も見えないし、聞こえない。とても静かで、まるで時間の流れが止まっている様に感じる。
もちろんこれは例え話であって、実際に私がいるのは、ロードクロサイト邸の客室にあるベッドの上だし、時が止まっているなんて、ありえないのだけれど。
どれくらい経ったのだろう。ふと何かか近づいてくる気配を察知して、顔を上げる。
どうやらこの屋敷の主が帰ってきたみたい。仕事を終えた"ご主人様"を、お出迎えしなくっちゃ。
急いで枕の端を咥えて引っ張り、ベッドの下に落とす。ベッドからそのまま落ちたら、体を強く打って痛いから、この大きくて、ふっかふかな高級羽毛枕で体への衝撃を吸収してもらうの。
暗順応はしなくても、部屋の内部構造は頭に入っているから、入口の位置は把握出来ている。あとはドアまで移動を続けるだけ。
たった数歩で行けた距離が遠く感じる。以前の様には動かせない、あまりにも鈍臭い体が恨めしいが、これが自分が選び取ってきた行動の結果だ。
当然、五体満足で身体能力も高い彼の方が歩幅は広いし、歩くスピードも速いから、あっという間に気配がすぐそこまで迫る。ガチャっと扉が開き、橙色の光が灯る燭台を手にご主人様が姿を見せた。
「ただいま戻りましたよ。いい子にしていましたかクレスティア?」
ロベリアさんはベッドの上に私の姿が無い事を確認すると、そのまま下方に目を向けて、視界に私の姿を捉えると、柔和な笑みを浮かべた。
「おや、お出迎えしてくれたんですね。嬉しいな」
こくり。頷いて肯定する。気を良くしたのか、ロベリアさんはその場にしゃがんで手拍子を始める。
「ほら、もう少しですよ。頑張れ頑張れ♪あんよは上手♪あんよは上手♪」
四本の手足を使って、残りの距離を少しずつ移動していく。最後は、ロベリアさんの腕の中に飛び込んでゴールした。
「つかまえた!ふふ、上手に出来ましたね」
彼は満足気に微笑むと、右腕で私の体をしっかり支えながら、左手で頭をぽんぽんしてくれた。それに応えるように私も頬擦りする。こういう何気ない動作に、相手の好意や愛情を感じるものだ。
なのに、私は愛情表現どころか彼への想いそのものを、心に秘めて蓋をして、ずっと見て見ぬふりをしていた。自分とも彼とも向き合わずに、何度も拒絶して、反抗して、彼の前から逃げ出した。
『言いましたよね。二度と他者に危害を加えない。その代わりに貴女が俺のものになると』
『違える気ですか、俺との約束を』
『今ならまだ許してあげますよ』
『それなら俺にも考えがあります』
その都度警告してくれていたのに、それも無視して、私ひどい事しちゃったな。
瞼を閉じて反省していると、ロベリアさんは私の頬を指でつついたり、つまんだり、髪や顎を撫でるなどして愛ではじめた。
背中に伝わるぬくもりは心地良いのに、耳をくすぐる甘く繊細で、色気を含む囁き声に、腰が砕けそうになって落ち着けない。ロベリアさんの楽しそうな笑い声が、広いリビングに響いていた。
かつて『雪の妖精』と称され、人々から愛された乙女は、美しい羽根を毟られ、もたもたと鈍臭く這いずり回る『芋虫』となった。
ただ息をして、食べて寝て、動くだけのクレスティアも可愛い。
それにしても、舌と四肢を失ったというのに、ここまで平常心でいられるのだから不思議だ。"常人"ならば、恐怖と絶望で精神に異常をきたし、理性を失うものだが。
クレスティアは従順に変化したように見えるが、心の底から折れたわけでは無い。尊厳を踏み躙り、関係者も一人残らず殺して、大好きな歌を口遊む美声も、楽器を演奏する指も奪った。それでなお、彼女にはまだ『希望』があると言うのか?
あるいは、彼女も他人とは感じ方や考え方に、隔たりがあるのかもしれない。
唯一反応したのは、下の世話をした時だ。顔を真っ赤にして、涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃになって、うーうー唸って恥じらうクレスティアは、それはもう本当に可愛かった!しかし、こんな美しい女性でも、やはり排泄物と吐瀉物は臭いし汚いものである。
クレスティアの美しい所も、醜い所も、綺麗な所も、汚い所も、可愛い所も、不細工な所も、全てを知って、ありのままを受け入れて、丸ごと愛しているのは、彼女の家族でも友人でもない。世界で俺だけだ。
「クレスティア。貴女にはもう俺しかいない。貴女は俺がいないと生きていけないんですよ。愛していますよ。俺だけのクレスティア」
これからも、たくさん可愛がってあげますからね。楽しみにしていて下さい。