石油と豪華客船②
前回の続きです。
「考え直すわけにはいかんか?」
時は日露戦争が佳境に差し掛かっていた1904年。
漢・浅野は、アメリカが続々と就航させてくる巨船群に対抗するため、いよいよ本格的に動き出した。
先の『日本丸』級と違い、今回は国内の造船所で建造することにした。
幕末から国内造船業の育成が少しずつ進み、ある程度の船なら国産できるまでに成長していた。
日本海海戦で連合艦隊が大勝した直後の1905年6月に三菱長崎造船所と2隻の建造契約を締結した(のちにもう1隻追加する)。
ただし、問題があった。
それは、浅野が構想した案にあった。
総トン数・・・12,000t
主機関・・・・蒸気タービン
パシフィック・メイル社の新鋭船に対抗するには、これくらいの規模は必須であり、一見するだけでは問題はないし、むしろ妥当なところである。
問題があるとすれば、これだけの大きさの客船を三菱が造った経験が無いという事だ。
これまで長崎造船所で建造された最大の船は『丹後丸』(日本郵船・7,463t)なので、浅野の希望する船は単純にその倍の大きさになる。
今まで造ったことのない船を建造するのは、そのための設備を調えるだけでなく、様々な事前準備が必要で、手間とお金がかかる。
設備面だけでなく、設計から現場での各工程に至るまで、これまで経験したことのない船の建造は、必ずと言って良いほど、事前に予想しえないトラブルや想定外のコストが発生する。
「造船はお堅い商売」と言われるが、実際は真逆で、造った船が失敗したら大赤字になってしまう。
今まで造ったことのない船に手を出すのは、いわば大博打と言っても良い。
さらに三菱を困らせたのは、浅野が主機関に希望した蒸気タービンである。
舶用蒸気タービンはイギリスで実用化されて間もないもので、当然日本では全く経験のない仕組みだった。
「我が社では経験したことのない大きさであるから、もう少し小さい寸法にしてはどうだろうか」
「蒸気タービンは、まだまだ新奇の機関。実績豊富なレシプロ機関で良いではないか」
と言ったかどうかは分からない。
ともかく、長崎造船所長の荘田平五郎は、浅野に再考を促した。
浅野なら、こう返したかもしれない。
「『常陸丸』(日本郵船・6,172t)の建造を主張し指揮を執ったのは、貴殿ではないか?」
当時1,500tほどの小型船の建造実績しか無かった長崎造船所で、欧州航路向けの大型船建造を主張したのは、当時三菱財閥の社外取締役であった荘田自身だった。
その後、三菱財閥総帥・岩崎久弥が荘田を長崎造船所長として送り込み、同造船所の発展に辣腕を振るわせることになる。
日本造船史上初めて6,000tを超えた『常陸丸』の建造は、長崎造船所を東洋一、そして世界屈指の大造船所へと飛躍させる、大きな一里塚となった。
もし浅野から先のセリフで混ぜっ返されたのなら、荘田も思わず苦笑しただろうか・・・。
写真を見ると、いかにも理知的な紳士という印象を漂わせているが、やはり胸の奥底で熱い闘志を滾らせた漢の一人だったのだろう。
最終的に、浅野の主張通りのspecで建造されることになった。
しかし浅野も、タービン機関など各種資機材は自らが購入して三菱に供給するなど、折れるところは折れている。
そこは単なる熱血漢ではない、一流のビジネスマンとしての側面が見て取れる。
それにしても・・・、
なぜ浅野は、新規の蒸気タービンにこだわったのか。
それは、前稿『石油と豪華客船①』の冒頭で述べた石油にある。
大きな挫折
もともと浅野は、セメント事業をきっかけに雄飛していった事業王だが、それ故に、現代風の言い方をすれば、エネルギー関係に造詣が深かったと言える。
前稿で、1896年に浅野が欧米視察をしたと述べた。
エネルギー源として石炭が主流であった時代に、これからは石油が石炭に取って代わっていくであろうことは即座に感じ取っただろう。
もっとも・・・、同様に考えていたのは浅野だけではない。
日本でいえば、帝國海軍しかり。
外国でも同様に新しいエネルギー源としての石油に注目し、速やかに自国の資源として押さえに掛かった国・政治家が多い。
ただ、エネルギー問題にたいしては常々疎く、動きが鈍い国もある。
日本である。
それはそうと・・・、
1892年に『浅野石油部』を発足させていた浅野は、さらに1905年、『南北石油』を設立し、翌1906年11月から横浜の保土ヶ谷に製油所の建設を開始していた。
アメリカから原油を輸入し、保土ヶ谷の製油所で精製した石油を国内に流通させる構想だった。
そして、原油を輸入するためのタンカー5隻を東洋汽船を通して発注させる。うち3隻は既にあるタンカーをイギリスから購入し、残る2隻を三菱長崎造船所に新規発注した。
それに、そもそも国内で算出する原油だけでは早晩国内の需要にとても追いつかなくなるだろうという、切実な見込みがあった。
しかし、この新しいビジネスモデルには大きな足枷があった。
原油含め、全ての輸入品には関税がかかる。
石油製品を作り出すには、莫大な量の原油が必要となるが、関税の税率が高いままだと、ビジネスとして到底割に合わない。
浅野は後の1908年、大蔵省に提言書を提出している。
しかし、この浅野の動きを快く思わない者も当然存在する。
もちろん大蔵省は、税率を引き下げる意見に反対どころか、税率を上げられるものなら、機会を見つけていくらでも上げたい側だろう。
(その志向は、令和になった今でも全く変わらないだろう😠)
それに加え、肝心の石油業界が浅野の提言に真っ向反対してきた。
日本石油を設立し常務理事(社長)である内藤久寛も浅野に対抗して、同じく大蔵省に反対上申書を提出した。
内藤の言い分も至極もっともであり、確かに1800年代後半以降日本国内における油田開発および算出量向上の努力が実り、原油算出量は増加し続けている。
もっとも、その増加量が国内における石油製品需要の増加量に応え続けられるかどうかは別問題であったが・・・。
石油生産のオーソリティーである内藤の視野が、石油産業を中心に向けられていたのに対して、石油だけでなく産業界全体に明るい浅野とでは、見えている将来像が全く異なっていた。
帝國議会での議論の結果、浅野の提言は退けられただけでなく、関税の税率引き上げまで決まってしまった。
それだけでなく、当てにしていたカリフォルニア油田が米国スタンダード・オイル社に買収されてしまい、原油供給の目処が厳しくなった南北石油は、保土ヶ谷の製油所における事業継続が難しくなった。
ついには南北石油そのものを1908年に宝田石油へ売却することになってしまった。
日本における石油問題の躓きは、もしかしたら令和の現在に至るまで続いているかもしれない。
一方で・・・、
この浅野の一大痛恨事は、これから生まれてくる豪華客船にも暗い影を落とすことになる。
浅野が手がけた石油事業挫折の顛末は、下の本を参考・引用させて頂きました。