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石油と豪華客船⑤

 前回からの続きです。


揃い踏み

 1911年8月、3年ほど遅れて三番船しん洋丸』が完成・就航する。
 三年の遅れによって、先の2隻と大きく異なる点があった。
 まず、燃料が最初から石炭専用となっていた。
 東洋汽船の経営が不安定なのを反映してか、姉2隻のデッキには全て高級かつ強靱なチーク材を採用したのに比し、『春洋丸』のデッキ材は一部を除いてマツ材を使用した。さらには、肝心の内装も著しく簡素化されてしまう。これは、客船としては痛い仕様変更だった。

 その一方で、前向きな変更点もあった。
 姉たち2隻のタービンは輸入品だったが、『春洋丸』のそれは国産タービンを採用したことである。
 実のところ、1905年に『天洋丸』を起工した時点において、三菱はタービンのパイオニアである英パーソンズ社と技術提携を結んでおり、わざわざ輸入する必要は無かった。
 しかし、「提携を結んでいる=信頼できるタービンを製造できる」意味とは限らない。
 おまけに技術提携している以上、三菱製のタービンにはパーソンズ社へのライセンス料も含まれるから、パーソンズ社から直接買い付けた方が安価にもなる。
 『春洋丸』が三菱製のタービンを採用したのは、同社のタービン製造技術も信頼できる程度に成長し、コスト面でも許容できる範囲になったことの表れといえるだろう。

波乱の生涯

 経営状態が不安定なれども、『天洋丸』級3隻による運航体制が整い、曲がりなりにも軌道に乗り始めた。間もなく、第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパの戦禍を避けてアメリカに向かう乗客が増加し、つねに満員という航海が続いた。
 しかし好事魔多し。
 1916年3月31日、濃霧の中を航行していた『地洋丸』が香港・タンカン島で座礁してしまう。
 更に悪いことに、離礁できないうちに翌4月5日に真っ二つに割れてしまい、放棄せざるを得なくなった。

『地洋丸』
このように見ると、見かけ以上に堂々として見える。

 第一次世界大戦終了後、世界に平和が戻ったように見えた。
 しかし、東洋汽船の経営状態は平穏とはほど遠かった。
 もっとも、苦しいのはライバルのパシフィック・メイル社(P.M社)も同じだった。
 いや・・・、
 むしろ同社こそ、崖っぷちに立たされていた。

 P.M社に限らず、アメリカの商船では人件費が安い中国人船員を多く採用していた。
 しかし、この時代から組合が強いアメリカでは、アメリカ人船員からなる船員組合が中国人船員を忌避して、政治的な活動を活発化させていた。
 この問題は船員だけに限らなかった。
 混乱に次ぐ混乱の坩堝るつぼにある清国から逃げ出すように押し寄せる沢山の移民が、アメリカ各地で低賃金で労働に従事していた。
 しかし、英語はもちろん解さない、文化風俗も全く異なる中国人との軋轢あつれきがあちこちで発生するのに、そう時間はかからなかった。
 1915年2月に『船員法』が米国議会を通過。
 その中の一項に『下級船員の75%が士官の発する命令を理解できること』とされている。
 中国人船員を排斥する目的は明らかである。
 安価な人件費で抑えられる中国人船員を使えないのなら、とても日本やカナダのライバル各社に太刀打ちできない。

 この法律が成立したのを受けて、P.M社は2ヶ月後の4月に「8月をもって北太平洋航路から撤退する」を宣言した。
 皮肉なことに、翌1916年に『天洋丸』級建造の引き金となった『コリア』『サイベリア』は東洋汽船に買い取られた。
 『コリア』は『これや丸』、『サイベリア』は『さいべりや丸』と名付けられ、1935年のスクラップまで稼働した。

 このあたりで、パシフィック・メイル社と入れ替わるように、新興のダラー・ラインがライバル各社を買収しながら勢力を拡大してきた。
 ダラー・ラインは、第一次大戦中に大量建造された戦時標準船を購入し、世界一周航路の一環として太平洋航路に送り込んだ。

『プレジデント・ハリソン』
見た目は貨物船っぽいが、『天洋丸』級よりも新しく、内装も豪華だった。
このフネの晩年は、日本ととても因縁深い。

 1920年代に入ると、カナダ太平洋汽船が20,000t超えの大型船を続々と就航させてくる。
(そのあたりの経緯は、下記事をよろちくわ・・・(;´Д`))

 『天洋丸』級は、就航からまだ10年を超えた頃合いで、極端に古い船齢ではなかった。
 しかし、折しも日進月歩の勢いで造船技術が発展していた20世紀初頭においては、10年少々超えただけでも陳腐化が著しかった。
 彼女たちは、生まれたタイミングも悪かった。

漢たちの肖像

 東洋汽船の経営は、いよいよ切羽詰まっていった。
 彼女たちに代わる、より大きな豪華客船を建造するどころでは、とてもなかった。
 幾度も浅野にチャンスを与えてくれた盟友・安田善次郎は、既にこの世の人ではなかった。
 京浜工業地帯の起源となった『浅野埋立』は、彼の協力あっての大事業だった。

安田善次郎(1838~1921)
安田財閥の創始者であり、浅野の事業発展にも欠かすことの出来ない役割を果たした。
右翼テロリストに刺殺され、非業の最期を遂げる。

 安田が存命なら、新しい豪華客船の話も進展したかもしれないが、彼の死と共にその可能性は霧消した。
 1923年から、東洋汽船が所有する航路を日本郵船に譲渡する話が表面化した。その話を斡旋した一人が渋沢栄一だった。

渋沢栄一と『青い目の人形』
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 渋沢栄一も、浅野の人生に欠かすことの出来ない人間の一人だ。
 浅野が実業家として一躍名を挙げるきっかけとなる深川セメント工場の斡旋を行ったのは、渋沢だった。
 浅野が職人たちと共に汗・泥まみれになって作業に打ち込んでいるのを見た渋沢が、浅野の人柄を見込んだところから長い付き合いが始まった。

 そんな情に篤い渋沢といえど、経営者としての立場から見ると、東洋汽船の置かれた状況は控えめに見ても絶望的だった。
 貨物船主体で手堅い収益源を確保していた日本郵船に、東洋汽船の客船事業を引き渡すのが最も上手い落としどころだった。

浅野の子

 半世紀近くも経営者として第一線を張り続けてきた浅野である。
 もはや東洋汽船に打つ手が無いことは、分かっていただろう。
 東洋汽船そして何より『天洋丸』級は、浅野が一世一代、心血を注いできた、彼にとっての分身・子どものようなものだった。
 彼女たちが「横浜を出港する日には必ず見送りに出向いていた」とのエピソードがあるほど。
 そんな何よりも大切な存在を、よりによってライバルの日本郵船に譲渡するのは、身を切られるように辛いどころではないほどの決断だったはず。

 しかし・・・、
 このままだと、無配となり株主に対して今以上の負担をかけることになる。それに加えて借金の上で新しい客船を建造するのは、株主にとって耐えがたい。
 どれほど苦しんでも・・・、
 浅野の判断の根幹にあったのは、実業王としての本能だった。

 1926年2月。
 サンフランシスコ航路と南米航路および同航路で使用している船を『第二東洋汽船』として分離した。
 そして翌月に同社は、日本郵船に吸収される。
 『天洋丸』級は、日本郵船の所属となる。
 客船を失った東洋汽船は、貨物船専業の商船会社となった。

 1929年、新鋭客船『淺間丸』が就航する。

『淺間丸』
Walter E. Frost, Public domain, via Wikimedia Commons

 20年を経て建造された新造船だけあって、あらゆる面で『天洋丸』級よりも優れていた。
 ただ、国際連盟の常任理事国となるほどの大国になり、世界屈指の造船業にまで成長させていた日本が送り出したにしては、いささか拍子抜けするspecと言われた。
 翌1930年、浅野が再び欧米視察に出立するが、その折に乗船したかどうかは分からない。

 『淺間丸』級3隻が揃った1930年、『天洋丸』は遂に引退する。
 それから2年後、1932年に『春洋丸』も引退した。
 引退した彼女たちだったが、ただ解体されはしなかった。

生まれ変わり

 1932年から36年まで、三度にわたり造船業を振興するために実施された『船舶改善助成施設』
 簡単に言うと、老朽化した既存船をスクラップする代わりに新しい船を国内で建造する船主に助成金を交付するというもの。

 日本郵船は新鋭貨物船を整備するため、彼女たちを解体見合い船に充当した。
 『天洋丸』は、新鋭N型貨物船の4番船『能代丸』の建造に貢献した。

『能代丸』
ニューヨーク航路に配船されるN型貨物船の4番船だった。
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 『春洋丸』は、リヴァプール航路強化のために整備されるA型貨物船『赤城丸』建造に充てられた。

『赤城丸』
結局、リヴァプールではなくハンブルク航路に充てられる。
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行堂嶐 『あんどうりゅう』
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