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才能は邪魔だ


【久しぶりに自分のインタビュー録音を聞く】

私はインタビューの時に基本録音をしません。


なぜなら自分の声を聞きたくないからです。


仕事ができなかった20代前半、大先輩の皆さんから「電話対応の時、『はい』って確実に返事して。いつも『あ、はい』って間延びするから不安になる」とか、「取材前にクライアントに素材を用意して欲しいときは、確実に依頼して」「とにかく話を聞くときは相槌を打って」ときちんとご指導いただきまくっていました。
その時から、「私の対応力やばい」という先入観、自己評価、社会人としてのダメっぷりを意識して生きてきたのです。その後クライアントを大激怒させて担当替えを経験したり、全くもってダメな子だったので、自己評価が覆ることはあまりなく、取材の時は常に「大変テンパっている」心境のまま。「こんなライターが来ちゃってすいません」という姿勢を貫き通して来た(そんなもん貫かないで)。
そのまま、20年くらいが経ちました。


時の流れ恐ろしい。


なんと「20年経っても同じ心境で仕事をしている」自分がいます。自分の仕事スタイルを客観視するのなんてもってのほか。私の声は「眠そうだね」と言われることが多いし、一緒にクライアントを訪問する営業さんから「メモもほとんど取ってないし、喋り方はふわふわで、大丈夫かなって正直思いました(でもそれでも原稿がちゃんとあがってるという結論に続くポジティブな意見だったと私は信じている)」と感想を述べられたこともある。

【ボイスレコーダーを使わない主義の確立】


そもそも1日数軒の飲食店取材とか、読者モデルと打ち合わせた上でのお家取材などをこなしていくと、レコーダーは使えない。ブツ切れ細切れのメモ、視覚情報、体感した空気感を言葉に起こす訓練を何千回と繰り返し、その業務に慣れたということだと思います。


10年前、インタビュー用にSONYのボイスレコーダーを手に入れたのですが、「あまりにも自分の話し声を聞きたくない」ためにフェードアウト。おそろしいほどにムズムズして無理。その後iPhoneを手にしても、録音機能を全く使わないまま。
ノートのメモと記憶だけで書ききるスタイルを確立しました。


例えば住宅取材の時、「子供が多いし、LDKは広く使いたいのでソファなどを置くのはナシ。走り回るとぶつかったりするし。Yogibo(ソファみたいに使える巨大なビーズクッション)を置いてソファがわりに。これなら人が集まった時、移動させるのも楽です」的な話を聞いたとき、メモにはこう書いてある。


「ソファぶつかる。リビング広くするため。ヨギぼう(表記がわからなかった)。うまく暮らせる。メリハリ」


ここから取材時の会話を思い出してなんとかする。


なので原稿を書くリミットは、取材から2週間(それ以上時間が経つと記憶がなくなる)。

【でも最近案外「取材がいいよ」って言ってもらえることがある】


そんなこんなで。

意識としては「テンパリ系取材」のままなのですが、最近たまに取材班の人から「一緒の現場だとやりやすいですよ」とか、取材対象者から「上手に聞いてくれてありがとう」とか、言ってもらえる機会があります。ありがたい。涙なしでは語れない。

でも、自分としては「ん? なんで?」と。どこが良いのか、どの点を持って褒めてもらえたのか。そもそも、ライターは「本当はディレクションまでできる方がいい」みたいに考えているので、営業さんたちがサクサクと撮影カットを決めたり、この写真にはこういう意味があるとカメラマンさんに説明したりする姿に羨望の眼差しを向けてきた。

私はそこまで到達しておらず、それどころか現場でカメラマンさんから「この写真使う? 使わない?」と聞かれても即答できない。使うかどうかは原稿を書き始めてみないとわからない。本当にわからない。すいません。(ただ、実際取材や打ち合わせでは、ディレクション役がいて、カメラマンがいて、ライターがいるのがベストだとは思っています。実務をこなす系の人(カメラマンとライター)は視野が狭くなりがちで、俯瞰できる人が1人欲しい)


【そして何年ぶりかの自分インタビュー録音】

その「褒めてもらえる理由」を客観視できる機会がやってきたのです。
取材マニュアルに「録音して」って書いてある仕事がやってきた。


録音!!!


実際は録音したのを別の書き起こしライターさんに納品するらしいのですが、私は残念なことに様々なアプリのことがよくわからず、「どうやって発注すればいいのかを綿密にレクチャーして欲しい。もしくは、それを学ぶ時間で自分で原稿を書くほうが早いかもしれない」と述べたところ、「自分で書いていいよ」ってことになったので、アプリは使わないまま通過しました。


こうしてアナログに拍車がかかる。


そして久しぶりに聞く自分の録音。ちょっと物は試しで、「メモと記憶だけで原稿を書いてから、答え合わせのように録音を聞く」というようなことをやってみました。


●記憶の検証→大筋は間違っていない。でも記憶はデフォルメされる。ストーリーを組み立てるために不必要な情報、あってもなくてもいい言葉は脳裏から削除されている。録音を聞いて、「ああこれ言ってた!」と、本文に追加しようとするとストーリーがまとまらなくなったり、結局文字数が増えるので使えなかったり。


●自分の話しぶりについて→これが、意外と大丈夫だったのでした。なんでだろう。年を取ったから?許容範囲が広がった?
何より印象的なのは、「自分がめっちゃくちゃ相槌打ってる」ということに気が付いたこと。「へえ」「そうなんですね」「なるほどですね」「わかります」「すごいですね」など、相槌のレパートリーが相当幅広いのです。
そしてオーバーリアクションを貫いていました。わりと些細なことで驚いたり、感動したり、へええって言ってたり。これはしかし、そういえばよく褒めてくれるカメラマンさんが言及してくれたことがあります。


「何もないのに『スッキリしていてきれいですね』とか言えちゃうところがすごい」


そうか。


めっちゃ相槌打つのと、オーバーリアクションで反応するのと、とりあえず褒めるのと(その時、私は本心で褒めているので嘘はない)、あとはひたすらメモする。メモはずっと昔、何かのイベント挨拶に立ち会った時、「社長が挨拶している間、ずっとメモしてくれていてありがとう。そのおかげで、彼はきっと話しやすかったと思うよ」と補佐っぽい方から言ってもらったことがあって。


「人は目の前の人がメモしてると喋りやすいんだなあ」と思ったことがベースになっています。


そう言えば、普段も私はこんな感じかもしれません。子どもの幼稚園行事の時、園長先生の話を聞いていると「へええ」「そうなんだ」「すごい」と声に出して(私一人だけ)反応しているので、他のママさんが後ろ振り返って笑顔を見せてくれます。

【できることなら聞きたくない】

録音というのが、リアルな記録として非常に便利だということはわかりました。
でも、聞かなくていいなら聞かないに越したことはないです。自分のあの「地に足がつかないフワッフワした物言い」はやっぱり恥ずかしい。本当にちゃんとして。お腹から声を出してくれ。でも実際、私の心境は未だに「テンパリ系取材」なので、あまり追い込むのは気の毒だ(自分のことだけど)。


そして、「インタビュアーとしての基本」のようなものは、あの注意を全身に浴びた20代の時の体験がベースなんだなと思いました。人に指導をするのはとてもエネルギーが必要です。だから、先輩からエネルギーを分けてもらって、それを何年かかってでも体の中に取り込んで、なんとかして使えるようにするというのは人生の醍醐味。


昔、「SWITCH」の糸井重里さん特集に書かれていたコピーが胸に浮かびます。

「10年経ったら物になる。才能は邪魔だ」

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地方の出版社を経てフリーの編集ライターとして活動しています。
○ライターの仕事を続けるには
○単価アップを叶えるには
○そもそもライターってどんな仕事?
○編集の視点とライターの視点の違い
などについて、自分なりの解釈をしていきたいと思っています。


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ライター和田知子:CLANG CLANG クランクラン
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