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行き過ぎた資本主義を感じて、もやもやした話。|生きる行脚#8@日本社会

(※あくまで1つの農場での話で、個人的に感じたり思ったりしたことを綴っているということを心に留めたうえで読んでいただければと思います。)

 僕は大学で学んでいることや「大学」という環境、自分の将来のことなど、いろんなことについてとにかくもやもやを感じていた。
 そんな中REIWA47キャラバンでの株式会社ポケットマルシェ(現:株式会社雨風太陽)のCEO、高橋博之さんとの出会いをきっかけに、大学3年生(2021年度)の1年間を休学し、日本各地で一次産業を生業とされている方の隣で一緒に作業をさせてもらう旅、「生きる行脚」をすることを決めた。
 生きる行脚とは、一次産業を生業とされている日本各地の漁師さん・農家さんのところに住み込みで1週間~1か月ほど滞在し、漁師さん・農家さんが普段やっているようなことを隣で一緒にやらせてもらう修行の旅である。
一次産業という産業のなかで物理的に命を扱ったり命と向き合ったり、一次産業を生業とされている方の生き様などを通して「生きる」とはどういうことなのかを感じたり、考えるため、2021年の3月8日(火)から2022年の3月28日(月)までのおよそ1年間、この「生きる行脚」を実施した。
 このnoteでは、この1年間で日本各地の漁師さん・農家さんのところへ行かせていただいたときに僕が見てきた景色や、僕が感じたことや思ったこと、考えたことを綴っている。


 「大規模」や「機械化」、「最新鋭」といった言葉には、あまり魅力を感じたことがなかった。だけど、自分が好きそうなものばかり見てるとそれしか見えなくなってしまうというか、自分の見る世界が広がらないような気がして、あまり好感を抱いたことはなかったものの、あえて大規模酪農をされている農場さんに実習のお願いをした。
 積極的な意味で興味があって行ってみたいと思ったというわけではなく、机の上で教科書に書かれている字面だけを見て食わず嫌いするんじゃなくて実際に自分の目で見て確かめたいという気持ち(これもある意味での興味なのかもしれない。)が大きく、自分の見る世界を広げるためにあえて行ってみよう、って感じだった。


資本主義を感じる。

効率優先・大規模化の先に


 機械を積極的に導入して大規模化すれば、作業時間や費用を抑えることができるし、「規模の経済」(規模の拡大により費用が分散され、1つのものを生み出すのにかかる費用が拡大前と比較して低くなる。一方で、規模を拡大した分だけ生み出される量は増えるため利益は増える、という理論。)がはたらくことによって利益を増やすことができる。効率的というか無駄がない感じがして、賢い理論だと思う。

 だけど実際には、大量生産するために大きな規模で牛を飼うということは、その分人間の仕事も増えるということでもある。いくら大型の機械を導入したり自動化を図ったとしても、必ず人間の手でやらなければならないことがある。機械やAIが人間に代わってすべてをやってくれて手が空くようになる、なんてことはない。規模を拡大しても、新しい機械を導入しても、「常に人手が足りない」という一次産業の常識は存在し続け、人間がやらなければならない仕事は増える一方だ。

 僕は、生後一ヵ月ほどの子牛を妊娠させる前の大きさになるまで育てる「育成」という部門で作業をさせてもらった。主な作業は餌やりと床替え(とこがえ:牛のベッドとなる敷材を定期的に交換すること。)だった。自分が不慣れだったからなのかもしれないが、次から次へとやらなければならないことが舞い込んできてとにかく仕事を捌かなければならず、牛と向き合うというよりは目の前にある餌と向き合っていたような感じだった。
「生き物を飼い育てている」という自覚はほとんどなく、それよりも作業感が強くて、「これじゃあ僕はまるで、人間の形をしたロボットじゃないか。」と思った。

床替えの様子。
牛舎は長さ200mほどあり、重機を使ってやるとはいえ重機では届かない部分はすべて人の手でやらなければならず、水分を多く含んだ堆肥をスコップで掻き出すのは時間のかかる重労働だった。


 そして、「効率」に追われるがあまり「効率」とそうではないものの判別がつかなくなってくると、「効率」の名のもとに牛への負担を強いるようになる。

 牛が餌を食べ残すのには、お腹が満たされたときの他に、餌の中に木の枝やゴミなどの食べられないものが混じっていることが考えられる。あるとき、餌やりの前に僕が残飼(前回あげた餌の食べ残し)を集めようとしていると、従業員さんに「残飼集めなくていいよ、効率悪いから。」と言われた。

 だけど、前回食べ残した餌をそのまま置いておいても牛は食べない。残飼に付け加えるような形で新しい餌を撒いても、充足率(牛の満腹度を示す指標のようなもの。)が100%になるということは基本的に考えられない。
 育成の時期に風邪や病気などの体調の波を作らないようにして育てることで、牛に長く活躍してもらうことができる。逆に、この期間に風邪をひいたり病気にかかってしまうとお乳を出すようになってからも体調が安定せず、4,5年というただでさえ短い生涯をさらに短い生涯で終えることになってしまうことも少なくない。だから育成の時期は、牛の人生(牛生)を決める重要な期間であると言っても過言ではない。
 そんな大切な時期なのに、
「人間の都合で牛が満足できるまで餌を食べることができないなんてことがあっていいのかな。」
   「『効率』って言葉の意味をはき違えてるんじゃないかな…」
って僕は思った。
また牛の場所を移動するときに、牛を早く移動させようとして従業員さんが回転柵を固定する杭で牛のあばらを叩いている様子を見て、
   「人間はどこまで自然を支配したら気が済むんだろう…」
と思った。

 生き物を相手にしているということが、置き去りにされているような気がした。

 命と効率・合理性が同じ土俵に立たされるというか、天秤にかけられているような感じがした。
 「酪農っていう命と向き合う世界で、効率や合理性が幅を利かせるようになっていく方向へ向かうことが、本当にこれから人間が向かうべき方向なのだろうか。」
そんな違和感を感じずにはいられなかった。

 従業員さん個人の牛への対応に問題がなかったとも言い切れなかったと思うけど、すべての責任を従業員さんに押し付けるのは違う気がした。なんというか、一緒に作業をしていた従業員さんは僕と1つしか歳が変わらないような若い人で、この人にすべての責任があるようには到底思えなかった。
 だから僕は、本当に問題があるのは、大規模化によって現場で働く人やお乳を出してくれる牛がしわ寄せを受けざるを得ない環境とか構造を作り出した、効率や合理性を追い求め目の前の数字や理屈に囚われている大量生産・大量消費の行き過ぎた資本主義なんじゃないかな、と思った。


酪農は、「見えない」。


 酪農の流通は、様々な牧場で搾られた牛乳が1箇所に集められ、パック詰めされた後に(当然、別の牧場の牛乳どうしが一緒に混ぜられる。)スーパーなどに並ぶというのが一般的な流れだ。牛乳は、大規模な市場流通にのって食卓に届けられることがほとんどで、直販などの割合は極めて小さい。
 確かに大規模市場流通は合理的で、とても効率がいい。だけど、作り手からは、「自分が作った牛乳を誰が飲んでくれているのか」ということがまったく分からない。休みなく牛の世話をして朝早くからお乳を搾っても、それを消費する人の顔が「見えない」。となれば当然、リアクションをもらえることもない。
作業をしてみて、「牛がよっぽど好きじゃないとやりがいを感じるのは難しくて、作業がどうしても惰性的というか、作業感が強い、やれされているようなものになってしまうな。」というのが個人的な感想だった。
だから僕は、もっと「見えたら」いいのにな、と思った。牛乳を飲んでいる人の顔が見えて、「おいしかったよ。」とかリアクションをもらえたら、モチベーションとか牛への接し方が違っていたのかもしれないな、と思った。


 うまく説明できたかはわからないけど、

    「大規模な市場流通とか、資本主義を感じるなぁ…。」

と思った。
そして、農業っていう命の世界でも資本主義を感じなければならないのかと思うと、少し悲しくなった。

おわりに


 「行き過ぎた生産や消費で成り立っているこの国は、どうなっていくんだろう…。希望なんてあるのかな。このシステムに組み込まれて生きていかざるを得ないのなら、社会に出たくないなぁ…。国外逃亡したいなぁ…。でも住む国を変えたからって自分が望む世界が待っているとは限らないしなぁ…」
なんてただ漠然とした、とりとめのないもやもやと葛藤した3週間だった。

 悩んで、心苦しい毎日だったけれど、ある種の学びや考えさせられることの多い3週間だったと思う。

農場のみなさん、お世話になりました。ありがとうございました。


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