僕たちは 何をするために生まれてきたのか。
もっと 人生を 強く生きて 死ぬまでに何かをしたい。
けれどそれは ー
「自分のために生きて 死ぬのか」
「人のために生きて 死ぬのか」
この問いから まず始めなければならない。
この人生への問いについて、僕の場合、10年に1度は訪れているようだ。サッカーのW杯やオリンピックよりもその周期が遅いため、忘れた時に突如となく襲われるからやっかいだ。
人生最大の難題
「僕たちは 何をするために生まれてきたのか」
誰しもが、頭を抱え、迷い苦しみ、涙が枯れるほど考えてしまう、人生最大の難題であることに間違いないと思う。
ただ息を吸って吐いて、”生きること”が前提であるのが人生であることは分かる。しかし、そうは言いつつも、人生の嘆きや苦しみよって自らの命を絶ってしまう人、またはその逆、そして自然の猛威や意図していない病、さらには不慮の事故などで亡くなる方がいるのも事実。
ただ 生きていきたい人であっても 自分の意図しないことで 生きることが終わってしまう場合があるということ。
もちろん「自分はそんな目に合うわけがない」と、100%に近いくらい、人はそう思って生きているわけだ。もちろん、例外なく、僕もその一人であることは間違いはない。
何のために生まれ 何のために生きるのか
サイエンスな話はあまり得意ではないので避けたいところだけど、草木を見てみると、不思議だ。
「草木は 何のために生きているのか」
僕は何の専門家でもないので、自然の摂理のような難しいことを言えるわけではないけれど、少しだけそれについて考えてみると、こう思ってしまう。
「人間が呼吸をするために、酸素を作り出すため」
完全に、僕ら人間ありきの考え方だからやっかいだけど、そう考えてしまうほかに、僕らの考えうる範囲の中ではわからない。
僕らは、草木ではないのだから。
もちろん、草木に感情があるかないかとかいうことを言えば、さらにキリがないけれど、もはやそれは解明不可能であり、それを実証するには、”人間であるということ”が、紛れもなくそれらの解明の答えの落とし穴であることが言えるんじゃないと思う。
そう考えると、「僕たちは 何をするために生まれたのか」に戻り、そこに意味をもたらしたり根拠をもたらすと、誰であれ、ある答えに導かれてしまうと思う。
”私欲”だ。
それは人間の本能であるから、それが実際の”生きる意味であり、目的だと捉えることができる”と思う。
食べたいものを食べまくり、やりたいだけヤリまくり(やらしい意味も含めww)、寝たいだけ寝まくり、怠けたいだけ怠けまくり、頑張りたいだけ頑張りまくり、そして死んでいく。
それって、生きる上で、あってもなくてもいいものなのか?
いや、そうじゃない。
その”私欲”がないと人は生きることができないと思う。
だからこそ、僕らは”生きていればこそできること”ということを、人生の中でやっていく必要がある。
つまりそれは、
「息をすること」であり、「人を助けること」であり、「死ぬこと」であると思う。
「死ぬまでに何をするか」
生きていればこそ、僕らは何をやったっていいんだ。
もちろん、ここでは人道に反することをポジティブに捉えているわけでは全くない。むしろ、僕らは草木でもない、僕らは太陽でもない、僕らは風でもない、”人間なのだから”。
”人間として生きているからこそ”、人道に反することは例外なくやめるべきだ。
そうは言いつつも、憎しみが起こり、殺人が起こり、戦争が起こっているんだけれど、それで家族を養っている人、生きている人がいること。それはもはや、受け入れなければならない人間の生きる道理でもあるのかもしれない。僕はもちろん、大反対であるが。
人間としての人道的範囲の中で、漫画を読んだり、お金を稼いだり、食いたいものを食う、行きたい場所に行く、会いたい人と会うことを、それが生きているならば、ポジティブに受け入れ、それが大なり小なり関係なく、それが生きる意味になっていると言える。
だからそもそも、そんな自分の人生を否定するなんてこと、考えなくてもいいかもしれない。
だって、みんないつか死ぬんだ。
人のために死んだもの
ある自然災害が起こり、その災害支援に、災害ボランティアに行き、亡くなったという人をニュースで見た。
「元も子もない」そんな言葉も聞こえてくる。
でも、僕はこう思う。
生きていればこその最上級の生き方であり、強く生きるということとはそういうことなんじゃないかと。
僕が何のために生まれてきたかはわからない。けれど、本当に僕がやりたいこと、僕が何をしたいのか、それは知っている。
その人は確かに「自分のやりたいこと」をして、人生を終えたってこと。
災害支援ボランティアに行って、その支援ボランティアの最中に自分の命を終える。
とてもピュアで とても強く とてつもなく最高に ー
「人のために生きた人生である」
人生を生きる本質は 本当はみんな同じ
そんなニュースを見て、「僕は本当に本当に 小さくて弱い人間だ」と、つくづく思ったりした。
過去に、一度災害支援という名のもとで、会社として行ったことはあった(インスタにアップしてる)。もちろん、それは自らが行動したわけではなく、会社の指示としてだ。
だけど、
「自分のために生きて 死ぬのか」
「人のために生きて 死ぬのか」
この問いに、自分が答えるとするなら 後者を選びたい。
それは不慮ではなく、自分が死ぬ時を自分で決めれる状況であった場合のことも含めて。
僕の大切な人が 目の前の崖から落ちそうな状況であるなら、僕が変わりに落ちて死ぬ。
僕の大切な人に 心臓が必要な場合は 僕の心臓をあげて 死ぬ。
僕が運転席、僕の大切な人が助手席、そんな環境で、対向車が前から突っ込んできたら、
僕は 迷わず左にハンドルをきりたい
そんな人生の終わり方。
それが、本質的な僕の人生の「死ぬまでに何をするか」の根拠でありたいと思う。
そして、人が生きる根拠でもあると 僕は思う。
このエッセイを読んでくれたあなたへ
生きるということは、無限にある紐を手繰り寄せるようなもの。でも、その最終的な根拠として、「人である以上、人のために生きる」という答えを、誰しもが持ち合わせていてほしいと思います。
また、僕が人生で迷った時にたびたびお世話になった本があるので、ここでご紹介しておきます。
コチラの記事『自分の人生を変える本。「永遠を旅する者〜ロストオデッセイ 千年の夢〜」』でご紹介しているます。
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