事件屋

第一部    仕込み


“wealth is like sea-water, the more we drink, the thirstier we become.”
 富とは海水に似ている。飲むほどに喉が渇く。
           Arthur Schopenhauer



第一章

寄生

2015年8月


『今日しかない』


『今夜しかない』


そう思った。


 真夏の夜の息苦しい暑い空気が、客の出入りがある度に吹き抜けて不快感を感じてしまう入り口付近のバーカウンターに座り、隣で泣き崩れる女を見ながら蓮見覚志はカードで支払いを済ませる。目配せでタクシーを呼ばせ、手を廻す。震える掌と、滲む汗は経験の少なさから来るものだったが、ノースリーブの肩の皮膚で敏感に感じ取った女は、蓮見と『同じ事』を思っていた。

 そして、じっとりと汗ばむ男のシャツに顔を埋め、声だけで更に泣いて見せた。女の両手の指から、肉をちぎる程の力強さを感じた蓮見は、タクシーに乗り込むと女の頭を少し乱暴に手繰り寄せ、そのままホテル街へと消えていった。


8月20日


「北野さん!私やったよ。あのおじさんは私と結婚したいって言うよ」


「さすが秋(チュ)さんだねぇ。君は結婚の話をしながら、いつもの通り借金の話をしておけば良い。額はそうだなぁ、500万くらいで良いから。肩代わりをすると言ったらすぐ連絡するんだよ」


「わかってるよ北野さん。でも私が好きなのは北野さんネ」


「勿論だ。とにかくぬかりなくするんだよ」


「うん」


 女の名前は秋山淑子(あきやま よしこ)。韓国籍で、秋淑子(チュ・スクジャ)といった。女が電話をかけた相手は、北野哲二(きたの てつじ)と言い、女衒と美人局で食っていると周りに嘯いていた男だった。

「一体いくらの借金で悩んでるんだい?僕に手伝いをさせてくれよ」


「おっきい借金だから、蓮見さんに迷惑かけたくないよ。その人、私なら1〜2年で返せる仕事ある言うから、それやって綺麗にしてから大好きな蓮見さんと暮らしたいよ」


「淑子ちゃん、それどんな仕事かわかってないんだよ。綺麗になるどころか、汚れてしまう仕事なんだ!僕が絶対助けてあげるから、いくら借りてるのか教えてごらん」


「……ご、500万円…」


「500万円??」


「最初は30万円だったけど、その後もう一度借りて…。でも100万円も借りてないのに、500万円って言われてるよ!」


「そうか、それは元金じゃなく利子も込みの金額なんだね。大丈夫。僕が全て消してあげるよ」


「そしたら…結婚してくれないでしょ?」


「馬鹿なこと言うなよ。その逆だよ。そしたらすぐにでも結婚しよう!」


「ほんとか?私借金無くなって、蓮見さんと結婚してずっと一緒に居られるの!?」


「勿論だよ、僕も淑子ちゃんと暮らせて幸せになれるんだ!」


翌日、秋山淑子の行動は早かった。まだ隣で寝ている蓮見を横目に、北野に連絡を入れ、返済日の日時設定をした後、バスルームに映る自分の顔を見てタバコを吸い、何度も何度も唾を吐き捨てた。



8月31日15:00


 約束の時間より早めに喫茶店にきた蓮見覚志と秋山淑子の間には、小さな紙袋が置いてあった。コーヒーを飲みながら、内心動揺をしていた蓮見の隣で、愛する北野を待ちきれない淑子は必要以上にソワソワとして、それが蓮見にとっては怯える女のように見えてちょうど良かったのか、


「大丈夫、僕がついてるから」


と、男らしさを取り戻した時だった。


「えーと、秋山さん?」


 不意に横から話しかけてきた男は北野哲二である。


「北野さん??」


 淑子より先に声を出したのは蓮見だった。


「え?あれ?蓮見さんじゃないですか!えー、蓮見さんが秋山さんの肩代わりするって話だったですか!」


 とぼけながら北野はにこやかに向かいの席に腰を下ろした。


「どういうこと?蓮見さん、どうしてこの人知ってるか」


 驚きを隠せないフリをする淑子に落ち着き払って話し始めたのは蓮見本人だった。


「淑子ちゃん。この北野さんはね、昔僕も借金でお世話になったことがある人でね、何度かゴルフもしたりしたいわば友人みたいなもんなんだよ」


 得意げに話す蓮見を遮るように北野は借用書を取り出した。


「しかし、蓮見さん。こんな事をするってことは、あんたらもしかしたら、結婚とかするの?」


「え、ええ、まあ、そんなとこです…こんな歳でおかしいかも知れませんが…」


 蓮見が遠慮がちに言ったのは蓮見と淑子の歳の差のことであった。蓮見は60に手が届く58才で、淑子は40手前の39才であった。


「いやいや。あなたはまだ若い。おかしいなんてとんでもない。僕は結婚を3回とも失敗しているので、蓮見さんには幸せになって欲しいんだ」


 北野のお為ごかし的な祝福にも、蓮見は悪い気はしなかった。


「これ…秋山さんの借金です」


 紙袋から取り出した5つの封筒には、それぞれ帯付きの新札の束が入っていた。


「蓮見さん。俺、これ、数えないよ?」


と言いながら北野はその5つの封筒を手前に引き寄せ、同時に借用書を目の前で破って見せた。


「ついでに、これはご祝儀」


 そう言って一旦手元に寄せた封筒の中から3つを蓮見に戻した。


「ごめんね。全部チャラっていう訳にはいかないけど、蓮見さんへ友人としての心意気を見せたくてさ」


 蓮見は驚きながらも嬉しさに涙ぐみながら、


「ね?北野さんは本当は良い人なんだよ!僕の友人なんだ!」


とはしゃいで淑子の肩を強く揺さぶった。
 淑子は北野を強い目で見つめていた。その光景を見ながら、北野は微笑みの目の奥でこれからの計画とその日数を弾いていた。



「肌が合うってのは本当にドツボに嵌る」


 コートが欲しくなる11月の夜、蓮見は新宿にいた。四六時中一緒にいる淑子は、今日に限ってはおらず、強めのバーボンをストレートで飲んだ後、一言こぼした。


「一人もんの俺にはお惚気にしか感じないよ、蓮見さん」


隣でタバコを吸いながら笑ったのは北野だった。


「あの子は良い子なんだけど、北野さんの他にも借金があってさ。それを処理してる内に自動車事故起こしちゃってさ。アルコールも入ってたし、それは自業自得なんだけどね」


「良いことだけの人生なんてあるわけないじゃない。今にまた良いことあるって」


「うん、ただ、うちの寺は古いだけで特に檀家も金持ちな訳じゃないし。護持会の口座は総代が握って俺には何の権限もないんだよ」


「うん、で、幾ら必要なのよ。力になれるならなるからさ」


「2000万円」


「2000万か」


「どうしても必要なんだ」


「2000の借用作って、後から檀家説得しても2000しか出して貰えないんだから、借用は9000で作ってやるよ。そしたら余ったのは懐入れとけば良い」


「え?そんなの大丈夫かな…」


「大丈夫。公正証書でまくから、どんなに頑固な檀家総代でも、そこは首を縦に振るしかないだろうさ」


「うん。でもそれじゃ北野さんはどこで儲けるんだよ」


「そりゃ護持会から引っ張った金の1割上乗せで返してくれりゃ良いよ」


「それじゃ、2000万に900万だから、ちょうど良いところの3000万円で良いかい?」


「勿論さ。後の6000万はあんたが貰っちまえばいい」

「そんなに上手くいくもんなのかな」

「大丈夫さ。そうだな。境内地が大分空いてるだろ?そこに霊園プランでぶち上げよう」

「いやそれは無理だよ北野さん!僕にはそんなもの運営なんて出来ないよ」

「あのねぇ、蓮見さん。今時霊園自体を寺が運営してるところなんて無いさ。土地だけ貸すのさ。利用料としてね。大丈夫…紹介するよ」

「それでいくらくらい入るの?」

「うーん、そうだな。一億位はいけるんじゃないかな」

「え?そんなに??」

「あんたは左団扇でゆったりしてれば良いさ。待っときなよ」


「ありがとう。持つべきものは友達だよ!」


 酒の勢いで勢い良く喜ぶ蓮見に、北野は答えた。



「ああ、俺たちは友達だよ」



 蓮見覚志は昭和32年(1957年)6月6日生まれで、実家は西暦927年から続くといわれる天台宗の「眞國寺」という寺だった。渋谷で何代も続いた家ではあったが、時代とともに檀家は離れ、蓮見の代では金回りも悪く、宗教法人の非課税制度を悪用して領収証を有料で捌いたりしていた。


そして北野の計画は年明けの2016年1月に実行された。


東池袋3丁目の雑居ビル。寒々としたビルの中の小さな部屋に、むさ苦しい男どもがタムロしていた。そこへ北野が帰ってきた。


「お疲れ〜」


「おう、あの寺の件どうなの」


「ああ、借用まいてきた」


「そうか、福祉法人の件はいつ頃持ってくるんだ?」


「今の所4月末までには首を縦に振らせられそうだ」


「ふ、さすが、早いな」


 ソファーにふんぞり返って北野と話すこの男は、株式会社プロテンダーの代表取締役新浪政春(にいなみ まさはる)と言い、業界では大地上げがあると彼の名前が飛び交う有名人でもあった。


「住職はあんたに依存癖が出て来ているかい?」


「そうだな、あいつは甘ちゃんだ。俺を助けたい気持ちと金が目の前にちらつけば何でもやるだろうさ」


「そうか、こっちもそろそろ役者揃えないとな」


 彼らに序列は無い。全員がプロの悪党であり、現に株式会社プロテンダーに在籍する6人全てが代表取締役で登記されていた。そしてそれは決して仲良し集団ではなく、それぞれが互いにいつでも食い合う獣の集団でもあった。


2016年1月18日


 北野からの2000万の金を借りた蓮見は、自身の自動車事故の処理と、淑子の架空の借金の返済を終えた。

 その後高金利設定の寺名義の請求を北野から用意して貰い、檀家総代に護持会からの拠出の許可をもらいに弁護士の宮野を伴い役員会を開いた。

 役員にはすでに秋山淑子の名前が連なり、境内地内の霊園造成プランをぶち上げ、檀家総代から請求書通り9000万円の拠出許可を得た。あきる野市で霊園を大きく展開している株式会社広重(ひろしげ)から使用許可料として1億を預かり、蓮見の手元には1億6千万円のキャッシュが転がった。

つい先日まで、場末のスナックの飲み代さえも困っていた男に多額の金が雪崩れ込む。

それは一人の大人の金銭感覚を壊すには十分な額であった。



 北野は金貸しである。それとともに、女衒と美人局をやっていたのも事実である。金を持つ初老の男を相手に、若い女を充てがうというのは赤子の手を捻るより簡単なことである。

歌舞伎町のキャバクラに連れて行き、蓮見のお気に入りの女に枕営業をさせる。散財させ、男を登場させ、金を奪う。歌舞伎町、銀座、六本木、全てにおいて女主導で嵌め込まれ、それでも騙され続けたのは、蓮見の生い立ちにも起因している。

蓮見は養子である。蓮実の実の父は義父の実兄であり、蓮見が5才の頃に愛人と入水自殺をしている。母はそれから7年後、蓮見覚志が中学校に上がる頃、白血病で亡くなっている。

なし崩し的に現義父の養子になったが、義父には一人息子がいて、その子は覚志と同い年であった。その一人息子は学(まなぶ)といい、覚志とは仲も良く常に一緒にいた事もあって常に比べられる存在でもあった。


 学は学業の出来が良く、覚志は運動が得意であった。
 昭和47年。世間ではあさま山荘事件が騒がれていた年の夏、共に15才の覚志と学は由比ヶ浜まで海水浴に出かける。

 覚志が目を離している間に浮き輪を付けた学は、沖に流されていた。覚志がその事に気づき得意の泳ぎで助けに行く間に、浮き輪の空気も抜け波に飲まれて行った。

 覚志の尽力は、彼自身もレスキューされたことでも理解出来るのだが、義父母の落胆は目も当てられなかった。

 それが元で覚志に辛く当たるようなことはなかったが、見る見るうちに老け込み、塞ぎ込むようになった両親を見て、感受性豊だった覚志は親から褒められたり認められるような言葉を受けずに育った。しかし、実の父の様に思い込みと依存性の強さは、表面化せずとも覚志に内在していたのかも知れない。


 最初の遊びは当然の如く北野が教えてくれた店だった。夜の歌舞伎町など来た事もない男が、孫ほども年の離れた女に欲情する。しかしながら北野が教えた店の女は、決して蓮見を喰わない。

あくまでもアフターで遊びに行く何軒かの店で枕役の仕込みが待ち受けている。

歌舞伎町で出会った女は女優目指しながらの社会勉強と生活費を稼ぎながらも奇跡的なスカウトを待つ女だったし、六本木で出会った女は女医で、お金は自分で稼ぐから夜の時間だけは割り切ってとことん遊びたいという女だった。そして銀座で出会った女は警察官で身元がしっかりしている女だった。

が、全ては嘘である。


 一人目は自然に騙されたが、二人目の女医はインターネットで若くして開業しているH Pも確認したし、3人目は警察手帳も見せてもらった。しかし、全ては偽造であった。


 頼りにされたいという強い逆依存は、騙されてもお金を無くしても消える事はなかった。


2016年4月


 たった3か月弱で、蓮見は手元にあった1億6千万円のキャッシュの大半を散財していた。いや、トラブルに見舞われ、その殆どをその処理に使わざるを得なかった。そして、奪われた1億2千万程の大金は、北野の下に流れていたのは言うまでもない。

北野が淑子を蓮見に近づけさせてから9か月が経とうとしていたが、結婚前の架空の借金で200万、結婚してからの架空の借金で1800万円、その後の貸金による利鞘で1000万、その後に1億2千万円、合計で1億5千万円、実際の散財分を差し引いても1億4千万円を蓮見から引き出していた。既に蓮見の手元には4000万と少ししか残っていなかった。
  しかし、北野の目的はそんな端金では無い。中途半端なその金は、単に蓮見を次の行動に引き込む為だけのものであって、北野の目には何の嬉しみも無かった。


「ばれちまったんだよ」


蓮見は力無くそう呟くと、大きな涙を一粒落とした。


「どうしたんだよ。金使いすぎちゃったのか?たまには良いさ。せっかく一度きりの人生なんだからよ」


これ見よがしに背伸びをしながら明るく振る舞うのは北野哲二である。全てはこの男が企み実行しているにも関わらず、努めて無関係を装い、また蓮見はそれを全面的に信用していた。


「いや、実はさ。金じゃないんだ。よっちゃんにさ、バレちゃって…」


「よっちゃんって、あの秋山さん?んで何だよ、別れるって言ってるのかい?」


「いやそんなことは一言も言わないんだ。かえってめちゃくちゃに言われた方が報われる。彼女は、俺が女遊びしたのを自分のせいだと思って…」


「どうしたんだよ」


「帰っちゃったんだ…韓国に…」


「あちゃ〜やっちゃったか〜」


「真剣なんだよ僕は!笑わないでくれよ。そうだ!北野さん韓国にもいろいろ詳しいって言ってたよね?お願いだよ、彼女を探し出してくれよ」


「バカ言ってんじゃないよ。外国まで行って人探しってなると、費用だって3〜4千万掛かっちまうんだぜ?」


「4000万…」


蓮見が止まった。ちょうど手元の残っている泡銭である。なんて運が良いんだ。蓮見は自分の幸運に感謝した。

 しかし、それもその筈である。北野はすべての残高を知っていたし、淑子も北野のマンションにいるのである。


第二章
         毒婦


 サンシャイン60を横目に、北野は事務所に戻った。寒々とした古いビルでエレベーターも酷く遅い。嫌な臭いが鼻についた。


(また今日もあいつが来ているのか)


新浪の事である。でっぷりと肥えた新浪はアルマーニのコードコロニアをたっぷりつける。3か月で1瓶使い切るほどの付け方で、彼が乗ったエレベーターには暫く臭いが残る。


「おう哲ちゃん、ナンボ吹っかけてきたんだよ」


「3〜4千万円って言ったけど、藁にもすがる思いだ。頼み込んできたよ」


「はっはっは。韓国で人探しで4000万!(笑)そんなぼろ儲けならあっちで探偵やった方が儲かるんじゃねーのか?(笑)」


「あのなぁ、新浪さん、最愛の人間を探すためにかける金ってのは、最愛の人の命を助けるための手術費と同じ理屈なんだよ。あんたには分かんねーだろうけどな」


「あれ?センチメンタルなこと言うじゃない哲ちゃん。もしかして同情しちゃってんの?(笑)やめてヨォ?今更さ」


「そんなんじゃねーよ。とにかくそろそろ次の用意しといてくれよ。これはタイミングで押し込む仕事なんだ」


いつにも増して真剣な返しをする北野に、新浪は笑いをやめた。


「それじゃ暫く俺は消えるから」


そう言うと北野は事務所を後にして仄暗い廊下の中に溶け込んでいった。
 マンションに戻ると、淑子が待っていた。


「お帰りなさい!北野さん!」


屈託のない笑顔を見せる女は、知り合ってもう10年になる。
当時はまだ20代後半で、生保のセールスレディをしながら、場末のラウンジで働いていた。飛び抜けて美人ではないが、肌と歯と髪の毛はモデル並みに綺麗だった。

 当時50代前半の北野は広域暴力団本部組長の金庫番として昼夜なく働いていていながら、昭和の大物フィクサー高永中と組んで裏仕事で大きな金を扱い続けていた。秋山淑子の辿々しい日本語は大阪弁の高永中とは比べ物にならないフレッシュさを感じさせ、いつの間にか夜を共にする仲になった。


「私、北野さんの事大好きよ」


そんな事ばかり口にしていた淑子が、あるときボソリと呟いたことがあった。


「保険の契約を取るためにお客さんと寝て、給料貰うために上司と寝て、こんなにセックスするなら風俗で働いた方がお金いいよ」


淑子は、全てセックスで契約を取っていた。それが彼女にとっては当たり前のことだったし、一度枕営業を覚えてしまうと、自分から仕掛けてしまうようになる。
淑子はその時既に3度の結婚をしていた。1度目は日本に来てすぐに結婚した飲み屋の客で、住まいは神戸で貧しいながらも明るい生活を送っていた。製鉄会社工場で勤務の夫は、鉄鉱炉の中に落ちて非業の死を遂げた。淑子はその時妊娠していたが、ショックで流産してしまう。


淑子が体調を戻したきっかけは、後日振り込まれた会社からの保険金を見てからであった。3000万円ほどが通帳に記帳された時、淑子は保険のセールスレディになることを決意する。それは自分を助けてくれた生命保険というものを、純粋に広めようとしたからである。


しかし保険の営業は一筋縄ではいかなかった。ただでさえ拙い日本語に、感情豊かな韓国人の気質では、客先で真実を話して、泣いて、心からのトークをしようともそれがかえって胡散臭く見えてしまったのではないか。いつしか営業成績は下から1〜2番をウロウロするようになり、固定の5万円ですら君には勿体無い、などと朝礼で罵られるようになった。


(一度退職して、違う仕事をしよう)


そう思った淑子は、ある日支店長に退職願いを届けた。支店長の太田は、西陽の差し込むオフィスの中で秋山淑子を睨みつけた時、淑子の美しさに気付いた。


 赤い西陽をそのままに照り返す真っ黒で艶やかな黒髪と、ボーンチャイナの磁器のような肌。 


「今、辞める事は無い」 


 身体を許せば、赦される。


 その日から淑子の営業方法は変わる。手法が変われば結果も変わる。淑子にとって枕営業は正義であった。お金を稼ぐために働きに来て、言葉で、資料でお客さんを納得させる事も、枕営業で契約を取る事も、契約は契約である。


 私は正しいセールスレディになるために働いているのではない。

お金を稼ぎに来ているのだ。


 一躍トップセールスに躍り出た淑子は、属性の高い客が集まるパーティーも担当することになった。その中の一人が二人目の夫となる若林だった。
 若林は不摂生が祟り、高血圧で高脂血症であったが、病院のドクターをもその体で抱き込んでいた淑子にとって、保険加入は容易かった。


 もちろんその時は愛など無かったのだが、高額な保険に入って貰った感謝から、何度か食事や夜を共にする内に、感情が芽生えた。結婚しても仕事を辞めない淑子に、若林は不満ではあったが、(いつまでも人に見られて綺麗でいたいから)などと、履いて捨てるほどある台詞にコロリとやられてしまっていた。


 当時の淑子にとって、会社を辞める選択肢は無かった。家を家として幸せに感じるには、外で働くことが一番手っ取り早いと考えていた。結婚して2年目を迎える年のG Wに若林と淑子は伊豆へ旅行に出掛けた。一人一泊7万円ほどする旅館に3泊する予定だったが、その旅行の最中に夫は他界する。くも膜下出血であった。



 夜、事に及びその最中の出来事であった。すぐ救急車を呼ぶべきだったのだが、淑子はそこで驚きの行動に出る。部屋付きの露天風呂で濡れタオルを作り、倒れてぐったりとした夫の体を丁寧に拭いた。自分の体液が残らぬように、丁寧に。
 浴衣を着させ意識の無い夫を寝させ、時計を見るとまだ21時である。淑子はそれから温泉街に繰り出し、アルコールを入れ他の旅行客と遊びながら、部屋に戻ったのは午前2時である。
 翌朝119番に電話し、フロントにも電話を入れる。とりあえず現場検証と検死を行い、若林の死亡時刻は11時となった。その時間には淑子は外に出ており、アリバイの証言もしっかり残っており、何より死因はくも膜下出血であり、特に怪しい点も見つからず、淑子はその日のうちに帰されている。


 その時何を考えていたのか、淑子は誰にも語っていない。しかし、明らかな殺意があった。

 それは嫌悪や憎悪の感情に基づいたものではなかったのかもしれないが、淑子は若林の死を期待して部屋を出た。それこそがラスコーリニコフの斧やムルソーの言った太陽なのかもしれないが、淑子自身にドストエフスキーのカラマーゾフ兄弟やカミュの異邦人の読書歴は現時点で確認されていない。  


 若林の保険金で1億もの大金を受け取った淑子はそれからも積極的に仕事に打ち込む。同僚の女性からは『枕』だの『毒婦』だの罵られたが、給料も保険による金融資産も彼女らとは比べものにならなかった淑子には何もダメージはなかった。

その1年後、淑子はまた結婚をする。相手は支店長の太田であった。
 淑子の魅力は一緒に居ないと分からない。夫の太田は栄転で東京に転勤を命じられ、淑子はその保険屋を辞めて、東京にて新しい保険屋に就職する。
 東京でも同じ枕営業をすれば良い。そう考えていた淑子は思わぬ壁にぶち当たった。東京では若く可愛い同僚のセールスレディが、淑子以上に貪欲に枕営業をしていた。思うように成績を上がらず、ただただ体を献上する毎日にふと現れたのが北野だった。


 同じ時期夫の太田は仕事で伸び悩み、家に帰っては淑子に辛く当たるようになっていた。しまいには淑子の枕営業を罵るようになり、二人の関係は過去最悪となっていた。

「北野さん…私の旦那どうやったら死ぬかな」


 初めは冗談だと思っていた北野だが、淑子の目をみるとその本気さが伝わった。


(こいつは、本物だ)


北野はすぐさまそれを感じた。そして、


(面白い)


とも思った。


 保険内容を全部持って来させ、海外旅行の計画を立てた。旅行先はマニラで、それら全てのプランは北野が立てた。その時も淑子は病院に運ばれている途中、夫の太田は乗っていたタクシーが事故に巻き込まれ、あっけなく亡くなった。淑子には何の疑いもかけられず、また1億もの保険金と毒婦の勲章だけが一つ増えた。


「私は北野さんの為になら何でもするよ」


 そう言った淑子に、北野が告げた次のターゲットは、眞國寺住職 蓮見覚志その人だったのである。


第三章
       分担


 新浪政春をよく知る人は、詭謀士と呼ぶ。そして職人であると。 
 成り済まして他人物売買を成立させる地面師は数多くいるが、事件ある所に颯爽と現れて、誰にも手を出せない状態にさせて地上げを敢行する事件屋でかれほど有名な人は少ない。


「キン、キン」


とデュポンのライターの開け閉めの音が10分ほど鳴り響いている。新浪が睨んでいるその先は、眞國寺の公図である。そして北野の名刺をちりじりに破いて、燃やした。


「舐めた面しやがって…」


それは怒りというより、憎しみに近い腹の底から捻り出すような声だった。


2016年5月


 新浪は蓮見のいる眞國寺を訪れた。
 新浪はその手腕も並外れているが、その体型も並外れた大きさであった。
 初めて新浪を見た蓮見は体が硬直するような恐怖を覚えた。
 新浪は社会福祉法人コンサルタントを名乗った。渋谷の一等地に専修学校付きの障害者施設を作るプランだった。
 宗教法人のような公益法人から、新しい法人を作る場合は同じ公益法人でないとほとんど続かない。固定資産税や事業税や住民税など非課税に慣れた宗教法人と社会福祉法人は親和性が実に高い。
 新浪はこれまでも自分のやり方で、自分のタイミングで全てを成し遂げてきた。今回のプランは北野のタイミングでプレスをするしかない。その事実だけで、新浪を苛つかせていた。


(いつまで遊び回ってんだ…はやく戻ってきて合意を取っちまえよ)


 心の中では鬼の形相でここにいない北野を詰りながら、蓮見に向かってはその体格に似合わないオーバーリアクションと茶目っ気ぶりを見せながら、この土地の貴重さを訴えた。
 蓮見はというと、当初の恐怖が薄れて、よりよく笑うようになったのだが、


「今ちょっと女房がいなくなってしまって、新しい事はちょっと考えられないんですよ…」


と、トーンが下がっていった。


(とりあえず、ここまででいい)


あとは北野と女房が帰ってきたら、自然に仕上がる。
プロは無駄な事はしない。必要最小限で留める。特に新浪はその傾向が強かった。
 3000坪弱の土地で接道部分を落としてしまえばあとはどうとでもなる。悔しいが今は北野を待つしかなかった。
 彼らの仕事において、等分などあり得ない。その仕事量で分配される。あるものは金を使い、あるものは暴力を使う。あるものは詭弁を弄し、あるものは法律を使う。難易度の高いことをやったものが評価されるわけでもない。その中で、新浪は事を成立させる事にこだわる、まさに職人であった。
 あらゆる事件に顔を出し、謄本上に載ることもあれば週刊誌上に載ることもある。しかし彼にアクセスできる人間は一握りであり、中途半端な事件屋では相手にされない。人目に憚る裏家業のスターである。


2016年7月


 新浪は檀家総代の家に向かった。数が少なくなったとは言え、まだ数百の檀家を抱える寺である。その総代は当然地主が陣取っている。寺院においてのキーマンは檀家という株主であって、雇われ社長の住職は二の次なのである。


「蓮見のさと坊はねぇ…」


檀家総代である鈴木は、重い口を開いた。


「あの子はあれでも精一杯やっているんだよ。それは痛いほど分かる。でもねぇ、彼はいつも心が逃げる。あれじゃこの寺も終わりだろうとみんなで話してるんだよ。この前だってよく分からないヤクザもんから9000万も借り入れしてたよ。新しい嫁が来てから、やる気が出たのは良いが、能力の無い者がやる気を出すと、余計悪くなってしまう。それでもね、最低限、子供は作った。あとはあの子が成人になるまでわしらが支えてやらなしょうがないと思ってるんだよ」


檀家の評判はめちゃくちゃだった。そこで新浪は蓮見と会った時のこととまるで逆のことを言い出した。


「この土地の一部を使って、福祉の学校や施設を作る事によって、行政のお金の助けもあるし、何より社会貢献をしながら、収益を産めるようにしたい。自分のような能力じゃ実務をやると余計ダメになるのは分かるから、逆に専門家を呼んで運営できるような形で、家族も鈴木さんら檀家の方々にも安心して貰えるようになりたい、と。言ってましたよ」


「ええ?あの子が?」


「はい、彼は彼なりに冷静に自分が見えてるみたいですよ。ただ、この案は役所で相談しながら出てきた案なんだけど、今更自分が言ったら、頭ごなしに否定されるだろうから、ってね」


「役所で!あの子は自分一人でそんなことしておったんかい」


「そのようですね。私はセカンドオピニオンとして、役所経由で仲介を通して紹介されましてね。まだ彼にはそこまでは話してないんですけどね。何よりこの都会の一等地で運営する福祉法人だ。注目度が高いということは失敗した時は街に住めなくなるほどの大恥です。だからまず、彼の気持ちを確かめるだけにしておいたんです。鈴木さん、彼の気持ちは今のところ、本気だし真剣です。」


「あのさと坊がねぇ…でもあの子は今までに数え切れないほど途中で投げ出して来た男だ。そんな簡単に応援出来ないのも素直な感情でねぇ」


「鈴木さん」


「はい」


「熱いお茶って放っておけば冷たくなるじゃないですか」


「そりゃ、ね」


「何で冷たくなるかご存知です?」


「え?いやそりゃ時間が経てば何だって…」


「鈴木さん!違います!」


新浪は鈴木を一喝するが如く声を張った。


「え?」


「お茶は勝手に自分から冷たくなったりなんかしませんよ!」


「…」


「お茶が冷たくなる理由ってのは、周りの空気が冷たいからなんです!」


「周りの…」


「そう。周りの。鈴木さんがこの寺を思う気持ち、蓮見家を思う気持ち、僕は拝聴させて戴いて、本当に感銘受けました。でもね、鈴木さん。鈴木さんが守っているのは、この寺を通して、それに関わる多くの人じゃないですか!
蓮見の住職なんか、その際たるものですよ。誰だってね、年齢通りに成長なんかできませんって。燻っていた薪がいきなり炎を上げることなんて日常茶飯事でしょう?それなのに長らく蓮見家の火守をしていた鈴木さんが、


“あの子は無理だ” 

 “どうせダメだ”


なんてそんな冷たい水ぶっかけ続けて、鈴木さんは蓮見さんにどうなって欲しいんですか?
そりゃ住職の付け替えだって出来るでしょう、今の子供が大きくなるまで待つのも良いでしょう、でも本当は、あの住職に立ち直って欲しいって気持ちが本当なんじゃないんですか?
そりゃあ、お金の掛かることです。簡単には決断しにくいでしょう。
でも福祉法人なら箱は補助金で大きくまかなえますし、檀家さんの負担は何もしないよりなら一時的には増えますが、長い目で見たら今より収益がある分軽くなる、そんなことまで考えている住職に、さっきと同じこと言えますか!?」


ここまで一気に捲し立てると、新浪は檀家総代の顔見た。鈴木の顔は、何とも言えない、悲しそうな、それでも嬉しそうな、情けないような複雑な顔で下を向いていた。涙ぐんでいるようにも見えた。


「今まであの子に変わることばかり考えてたけど…」


そこまでいうと鈴木は顔を上げ、少し晴れ晴れとした顔になっていた。


「わしらが変わらんとダメなのかも知れんねぇ。ねぇ、新浪さん」


「いえ、生意気言ってしまってすみませんでした…」


「いやいや、あんたも真っ直ぐな人みたいだ。あんたみたいな人がいたら、少しは安心だろ」


「とりあえずまた、日を改めます。蓮見さんには黙っておいてくださいね。彼も本音をバラされたとわかったら怒っちゃうかもしれませんから」


「大丈夫。その話になる時まで黙っておくよ」


「有難うございます」


深々と礼をする新浪は、次の計画の進行成功を確信した。


全くの嘘で嘘の計画が進んでいく。
人は人の言葉を信じる。
いや、自分の『信じるという判断』を信じる。

 過去も未来も人が信じる事だけで作られていく。


2016年7月


 北野と淑子は韓国の済州島にいた。バブルの頃に隆盛を極めた日本企業が建てたマリーナ付きホテルで、ひっそりと月日が流れるのを待っていた。


「北野さん、いつまでここにいるの。ここは温泉も狭いし、遊ぶところもないよ」


「新浪から連絡は来てる。いつでも帰れるんだが、もう少しだ」


「何で。北野さん蓮見といつも電話してるでしょ」


「ああ、だからなんだよ。もう少しであいつの限界だ。精神的にとことん落ちたときに、お前を戻らせて一気に仕上げるんだ」


「よく分からないけど蓮見と暮らすのは嫌だよ」


「何だと?」


「違うよ!大丈夫!嘘だよ!ちゃんと頑張るよ」


「お前はお前で保険の計画があるだろ?一緒に頑張ろうな」


「分かってるよ」


  北野はただ測っているだけである。状況報告をしながら、蓮見の声で、言葉で、適切なタイミングを測っているに過ぎない。費用は予算の中であれば言い値である。そんな金を欲してこんなところにいる訳ではない。

そして、とうとうその日はやって来た。



 7月27日


 蒸し暑い真夏日の東京に二人は戻って来た。
 2日前に連絡をもらってから、今か今かと待ち望んでいる蓮見は、昼頃という約束に対して、10時には玄関先に立って待っている。


 全く風のない日だった。古い石畳をサンダルで歩く淑子の足音は、湿度の高い熱気が停滞した小径に響き渡る。
 少しだけ風が吹き抜け、木漏れ陽が揺れた。
 蓮見が走り込んでくる。
 少しだけ淑子が振り返った。
 北野の目には無音のスローモンションに見えた。


(蓮見さん。あんたの人生のピークは、今この瞬間だよ)


 少しだけ残っていた良心を、今この場で捨てていくように北野は踵を返した。それは淑子への未練だったのか、蓮見への憐憫だったのか、北野にも分かっていない。


8月4日



 カルピス入りのアイスコーヒーをストローで吸い込みながら、淑子は蓮見に将来の構想を語っていた。4ヶ月弱の逃避行で、北野から叩き込まれた福祉法人運営の将来性を、水が流れるようにスラスラと熱弁した。


「北野さんの受け売りかい?」

 風鈴の音だけが涼しげに響く庫裏の縁側で、楽しげに話す淑子の後ろでずっと立ちながら聞いていた蓮見が、団扇で少し生温い風を扇ぎながらとうとう一言口に出した。

蓮見にとってはその中身より、北野と蓮見がいた時間への疑念が浮かび始めていた。淑子は蓮見の言葉を思い出す。


『良いか?最初の3日は全てをお前に捧げるだろう。だがそれ以降は、お前への愛ゆえに嫉妬が生まれる。お前が言う新しいこと全て、恐らく俺に絡めて疑ってくるだろう。福祉法人の話に引っかかって来たら、


「今時こんなのは当たり前だよ」


「宗教法人のコミュニティーでみんなやってる」


「知らないのはあなただけ」


この三つを連呼しろ。それだけいい』


淑子は北野の言葉を思い出すと、少しだけ気色ばり強めに返した。蓮見は淑子が自分の嫁である自覚を元に、宗教法人の勉強をしていたという嬉しさと、また機嫌を悪くしていなくなってしまったらどうしよう、という不安とで、心ここに在らずの表情でただ苦笑いをした。


 淑子は夕食の準備の前に、北野に今日のことをメッセージで入れた。それを受け取った北野はすぐさま新浪に連絡を入れた。
新浪はヒルトンホテルのラウンジで部屋から持って来た新聞を読んでいた。


「そうか、2020年の東京オリンピックは、野球と空手が追加されるのか」


新聞を斜め読みしながら紅茶を飲む。見た目に似合わずその太い指で器用に細いティーソーサーを取り回す。真っ赤なダージリンにレモンを添え、マカロンを口にポイポイと放り込んだその時に、北野からのメッセージが届いた。


(よし、こっからは俺の仕事だ)


すぐさま部屋に戻り、その日は一歩も部屋の外には出なかった。



第四章
     背中


 8月14日


 街中で国民的アイドルグループ解散の号外が飛び交う中、新浪は眞國寺に向かった。突然やって来た新浪に大喜びで対応したのは淑子である。面識の無い二人だが、互いに写真で知っている。淑子の存在で、新浪は飛び込みをかけても断られることはない。
 少しだけ情緒を取り戻した蓮見は、会釈をしつつ玄関先に現れた。


「お電話頂けたら茶菓子でもご用意出来たのですが…」


「とんでもないです。それより奥様お帰りになられたのですね」


「はい、ようやく…」


「実に健康的でお美しい。ご住職もこれからますます頑張らないといけませんな」


「はぁ、どうすれば良いのやら…」


「だから福祉法人で学校を建てようという話じゃないですか!」


淑子に聞こえるように、言う。


「何の話をしてるの」


待ち構えていたかのように淑子は話に入って来た。


「よっちゃん、よっちゃんがこの前話していた福祉法人の話でね。よっちゃんは老人ホームのことを言ってたけど、介護を学べる学校を作ったらどうかというお話なんだ」


「奥様にはお名刺お渡ししていませんでしたね。私は新浪政春と言います」


「知ってるよ、横山さん。私は蓮見の妻の淑子と言います」


「横山?」


蓮見は不思議そうに新浪を見る。新浪も不思議そうに蓮見を見た。


「よっちゃん、この方は新浪さんだよ」


笑いながら蓮見は淑子を諭した。淑子は一瞬で自分のミスを理解して


「区役所の人で大きい人。横山さんって凄い似てるけど、違う人だね。ごめんなさい」


「役所ですか?!私も役所で働きたいですけど、生憎体重制限で引っかかってしまいます」


 自虐を含めた台詞と、どう見ても役所には居なそうな新浪を見て、単なる淑子の勘違いだと思う蓮見に対して、新浪の内心は煮えくり返っていた。
 新浪政春は別名を横山と名乗り大手企業の地上げの取り纏めをやっていた時期があった。古くから知る者は彼を横山と呼ぶが、第三者にそれを告げるのはタブーでもあった。北野と淑子が二人の時に新浪を横山と呼んでいたに過ぎなかったのだが、そんなちょっとした事が蟻の一穴になることを知っている新浪は、怒りに震えた。


 3人で居間に入り、新浪は檀家の鈴木に話した内容をそのまま二人の前で話した。丁寧な説明と実績に基づいた自信のある話ぶりに、蓮見の心はすでに根っこの無い樹木のように揺れていた。隣では新浪の話に夫婦の将来を夢見て楽しそうにしている淑子がいる。


 ちょうどその時、インターフォンが鳴り、檀家の鈴木がやって来た。正直蓮見はタイミングの悪さを感じ、通話越しに緩やかに手が離せないことを告げていたのだが、当然これも新浪の設定通りだった。
 昨夜檀家の鈴木のもとを訪れた新浪は、鈴木にこう言った。


「また住職に呼ばれてしまいました。熱意があるのは良いのだけど、元来の気弱さで、まだ鈴木さんにお話しできていないとの事で。役所の許認可の数も限りがございます。時間がかかるようなら申し訳ないですが数年諦めては如何ですか?と勧めたのですが、どうしてもお話がしたいとの事で」


「それはそれは。またさと坊は新浪さんにご迷惑をお掛けしてましたか」


「迷惑というよりはですね、彼はきっと後押しが欲しいんですよ」


「そうでしょうなぁ。新浪さんに背中を押してもらって、勇気を持ってワシのところに来てくれるのを待ってるのですがね」


頭をかきながら鈴木は漏らした。その言葉を聞き逃さなかった新浪は間髪入れず提案した。


「鈴木さん、きっとそれだと彼の自信につながりませんよ。それより、明日の14時に、家まで来てください。それで、私らの話に入るのではなく、『将来の為の投資をやるところも多いのに、お前は何もやらずにプー太郎のような生活をしてるのか!』と、怒鳴り込んできてください。そこで初めて、彼の口から説明できると思いますし、その時は何年ぶりかに褒めてやってくださいよ」


「あぁ、それなら良いかもなぁ。すいません。何から何まで」


 インターフォン越しの鈴木の口調は少し怒気を孕めていて、蓮見は家にあげるのを躊躇した。が、追い返すわけにはいかず、資料を隠させ、鈴木を中に入れた。


「すいません新浪さん。今日はこの辺で…」


蓮見が新浪に断るや否や、鈴木は居間に飛び込み、昨日覚えたセリフのまま怒鳴り散らした。新浪は他人の振りをして驚きの表情を見せ、蓮見は初めから鈴木のセリフが耳に入っていなかったのか硬直しているままだった。


「なんだ鈴木さんか!覚志さんはちょうどその話をしているんです!あなたよりもっと早く、もっと真剣に考えてるんです!」


止まった時間を割いたのは淑子の甲高い声だった。聞きとりにくい淑子の言葉だったが、初めから説明を求めるつもりだった鈴木は、


「なんだ、さと坊。お前も何か考えてたのか。ちょっと聞かせてみろ」


と、多少芝居がかったやりとりをしながら、新浪と改めて初めましての名刺を交換した。
 我に返った蓮見は、5分前に聞いた新浪の内容をそのまま鈴木に披露して、鈴木は約束通り蓮見の背中を年老いた厚い手の平で大きく摩り、また大いに褒めた。


 新浪の脚本通り『事』は進んだ。

 新浪が作ったセリフを檀家総代の鈴木が言い、それに対して蓮見が返すセリフも新浪が作ったセリフである。

 鈴木も蓮見もそんな事とは露知らず、作られたセリフの寸劇を、新浪という監督の前で演じきる。上手いも下手もない。

 鈴木は新浪と企んでると思っているし、蓮見も新浪と企んでいると思っている。それだけが重要であった。
 人は共犯関係になって初めて背中を預け始める。
 ただその狙いは、作った者にしかわからない。


 事が走り出した新浪は、兼ねてから用意していた退職寸前の役人を用意した。金のない蓮見が、福祉法人を立ち上げ、障害者施設付き専修学校を造るためには補助金の存在が必須であった。補助金の為に出来レースの相見積もりも必要となるし、何より福祉法人の保証人となる代表の資金力エビデンスの提出が求められる。


 不動産投資の世界で、借入希望者の収入エビデンスとなる源泉徴収票や通帳残高の偽造、倒産した会社の源泉を使った追加納税による課税証明違法作成、ネット銀行口座そっくりの偽造サイトなど、あの手この手で融資を求める手法が、某銀行の不正とともに明らかになったが、役所の補助金も同じである。

 偶然を装い蓮見の窓口の担当になった女は高橋といい、寿退職が決まっている28歳の地味な女だった。高橋は蓮見の言葉に相槌を打ちながら、心配している資金証明のところで声を潜めてこう呟いた。


「ここだけの話、みんなやってますよ。真っ正直に心配されてる方なんて、蓮見さんくらいですよ」


 蓮見は優柔不断で右に習え的な思考が強く、愚か者の典型のような人間である。次の日には異常なくらい自信を持って必要書類を揃えていった。

地元の建設会社で、公共工事などにも強い上山建設に施工は決まった。それは当然新浪の推挙があったからこそだが、特に上山建設に仕掛けをしているわけでもない。上山建設は優良で評判も高く技術もある。そういう会社を紹介してくれた新浪を信頼したし、上山も補助金という確実な金も見えている工事だったので快く受注した。

 工事は2018年の4月の着工を目処に建築計画が立てられた。そして、着工予定から逆算して、眞國寺の土地の分筆と、福祉法人の設立とともに協調融資の償還計画や収入算定資料、募集用のパンフレットも出来上がり、その法人による分筆された土地の取得を進めた。

その間、獣たちは鳴りを潜めていた。

一匹の獣を除いて。


第一部  完







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