話が長い人、なぜ喋り下手に見える?
話が長くなる人って、聞いててホントうんざりしますよね。
相手の立場によっては止めることもできず、ただ辟易しながら聞いているしかないこともあります。
でも本人は、まるで周囲が見えていないかのように、いつまでも気持ちよく話し続ける。
そういう人って、なぜそうなるの――?
いつもお読みいただきありがとうございます。
または初めての方も、この記事を見つけてくださって嬉しいです。
私は都内某所でエンジニアなどをやっております、中島と申します。
たけのこ族のたけのこ踊り をする娘と、昔のたけのこ族しか知らないのにダメ出しをして言い争いになる妻と、そしてそれを物凄くどうでもいい目で見ながらリモートワークに励む私がいる今日この頃です。
この 絶対バグらないシステム作ろうぜの会 では、バグの出ないシステム・問題を起こさないチーム運営・AIには作れない設計論などのコラムを、なるだけ面白く・分かりやすくお伝えする主旨で記事を配信しております。
1. 前提:主張には根拠が必要
話が長くなる人の話をする前に、社会の当たり前のことをいいます。
“主張には根拠が必要です”
当たり前の話ですよね。
物事なんでも、根拠なくいい加減なことを言ってはいけません。
根拠があれば何でも言っていいかというと、それは違います。
でも少なくとも、根拠がないことを主張してはいけないのです。
こちら、今回の話のポイントになるので、読み終えるまで覚えておいていただけると助かます。
2. 話が長くなるのは、別に褒めてほしいからじゃない
いわゆる、“話が長くなる人” に関する話で、ここ最近読んだ本に「ん?」と思うような記述があったので紹介します。
話が長くなりがちな人の、ケースの1つとして紹介されていました。
個人的に気になったのは、この著書の中では、悪い例の方の人がそう話してしまう理由を『頑張ったことを認めてもらいたいから、頑張った過程を話してしまう』と分析されていたことです。
もちろんこの例は著者が自分で考えた文章ですから、設定としてはその通りだったんだと思います。
実際、昭和気質な先生の中には「結果なんかどうでもいい。プロセスが大事だ」と、割と筋肉なこと教えてしまう人も多い世の中です。
それを真に受けた人の中には、褒めてほしくてプロセスを話す人だっているでしょう。
でも、プロセスを長々と話してしまう人って、別にそうじゃないよね。
こういう人って、
「その根拠を話せ」と言われて
でも自分でも根拠を巧く説明できず
モタモタしてたら「なんでそう思ったのかを話せ」と命令を言い換えられ
だから素直に“そう思ったときのこと”を話し始める
というパターンも相当多いです。
みんながみんな、褒めてほしくて話を長くするのではありません。
『根拠の代わりに、なんでそう思ったのかの経緯を話している』というケースは相当多いのではないでしょうか。
プロセスを長々と話すと、相手は「お、おう、、、そうか」みたいな感じで、ちょっと引き気味に納得するんですよね。
でもいっぱい喋って疲れてる方は相手の表情なんて見ないので、「そうか! プロセスを話せば納得してもらえるんだ!」って覚えちゃうんです。
だからプロセスを長々と話してしまうんです。
もちろんみんながみんなそうじゃないとは思うけど、そういう人も相当いるってこと。
3. “結論だけ話す”で終わってはいけない
で、伊藤さんの本の続き。
彼の本では、良いしゃべり方の例として「A案を押していくべきだと考えます。」と簡潔に話すことの重要性が説かれていました。
まぁ、そりゃそうですよね。
文章はなるだけ短い方が分かりやすいです。
でも、これ、「A案を押していくべきだと考えます。」だけだとあきらかに情報足りないですよね。
これだけだと、どう考えても「え? なんで?」という気持ちが先行するし、「なんでそう思うんだ。プロセスを話せ」と指摘を受けてしまい、話がループしてしまいます。
もちろん簡潔に話すのは大事なことだけれども、でもそれは話が長い人がまず気をつけるべきファーストステップです。
当然ですが、結論だけ簡潔に話せるようになった人が、それ以上なにもしゃべらなければ話が通じません。
それができるようになった人には、当然次のステップがあります。
それが “根拠をつける” ということ。
大事なことなので何回でも太字で言います。
“あなたの口から出る全ての主義・主張には、根拠をつけましょう”
これは、ビジネス上の重要な発表のときも、くだらない雑談の中での きのこたけのこ戦争 の趨勢を占うときも全部同じ。
主義・主張には根拠をつけましょう。
たとえば、世を騒がせる “炎上記事”。
あれだって結局は、根拠が不十分だから炎上するわけですからね。
もちろん世の中には、根拠十分だったのに政敵(に相当する人物)から言いがかりをつけられて炎上するケースもあります。
たしかにあります。
でも、そんなのはわずかです。
炎上する理由の大部分は、“根拠が伝わらなかったから” です。
え? 言わなかったけどオレ様の中ではちゃんとある?
知らねぇよそんなもん。
じゃあお前は他人に根拠なくディスられて「よく分からないけどきっと根拠あるんだろうなぁ」とか思うのか?
思わねぇだろ? じゃあなんで自分だけは思ってもらえると思うの?
。。。って話です。
本当に大事なことなのでもう1度言います。
主義・主張には根拠をつけましょう。
4. 根拠とは何か
しつこいようですが伊藤さんの本。
その中で、悪い例として出したこちらの記述。
この人は、「なんでそう思ったの?」と聞かれたときの防衛線として、そう思ったときのプロセスを話しています。
(伊藤さんの設定上は、この人は褒められたい気持ちの強い承認欲求モンスターだったのかもだけど、普通は話を防衛線として長くするものです)
でもこれだと、A案を推す(押す)べき根拠は「資料を読んだとき、なんかそう思ったから」ってことになってしまうと思いませんか?
だって長々と話してる割には、根拠の部分が「調査した結果、そう思った」くらいしかないですからね。
たしかに根拠をつけるのは大事だけど、『なんかそう思ったから』レベルの浅い根拠が通用するのは、くだらなくて実害のない雑談のときだけです。
つまり悪い例に出てくるこの人は、学生気分で雑談レベルの主義・主張をしていることになるわけです。
本来、この人が資料を読んだときのプロセスを根拠にするのなら、
資料のこの部分にこのような記述がありました
調べた結果、それは○○という理由であることが分かりました
つまりA案であれば、○○という効果が、これくらい生じます
対してB案では、同じ効果が、これくらいに留まります
ゆえに私はA案を推すべきだと判断しました
これくらいは突き詰めないといけなかったはず。
まかり間違っても「A案を推すていくべき」とだけ簡潔に言えばいいわけじゃないし、それは終わりではなく、始まりにすぎないのです。
なぜなら《根拠》とは:
- 必ず誰でも同じ結論に至るはずの文章(or理論・理屈)のこと
だからです。
ですので根拠には、他人が自分と同じ結論に至ってくれる(はずの)条件を述べなければいけません。
そのために必要なものは《前提知識》かもしれないし、《前提経験》かもしれない、または《前提感情》かもしれない。
またそれぞれの情報量だって、少なくていい場合も、しっかりたくさんないといけない場合もあるでしょう。
それはケースバイケースで色々だと思います。
知識・経験・感情。
こういったものは、人によってそれぞれ異なっていて当たり前のものです。
これらが全く異なる人々に、自分と同じ結論にたどり着いてもらう。
そのために根拠というのはつけるのだし、なんなら主義・主張というもの自体、それが目的です。
ですからどんな小さなことでも、全ての主義・主張に適切な根拠を適切な分量だけつけることが大事だと、私なんかは思うわけです。
ではまた。