優しい時代から生きづらさの時代へ
ひと頃、優しさや癒しがあることが評価されるトレンドがあった。叱るより褒める、褒めて育てる、気持ちに寄り添うなどのイメージ。
その甘さが更に進み、昨今は「生きづらさ」が共感を深める時代といえよう。いままで秘密にしていた自分だけの「生きづらさ」=多様な痛み故に、多数派には理解されなかった内情をあえて告白して、他にも同じ「生きづらさ」を持つ人たちが共感を高めあう。
その生きづらさの根幹として、自己肯定力の低さがあるとよく指摘される。しかし、自己をありのまま肯定出来る人なんて、たぶんそうはいない。誰しも自分にしかわからぬ痛み、コンプレックスはある。ただそれに対して、そこにフォーカスして拘泥していては時間がもったいないから、自己を無理やりにも愛す。それは、他者がどれだけ自分と異なっていても、出来るだけ受け入れるように。
自己肯定力とは、ヤケクソの愛である。どんな自分であれ、他者を含めたこの世界がどんな世界であれ、とりあえず向き合う。
つまり「生きづらさ」とはdifficult to survive
生き残っていく困難。別に生き残らなくても
いいけど、死にたくもない。その気持ちも、よくわかる。しかし、現に自分というエゴある存在が有るように、他者にだって、痛みも「生きづらさ」もある。
この世に生きるすべての動物は「生きづらさ」の中でサバイブしている。
それを讃えて、プライドを持って、他者を含めた世界に対して希望的な態度で生きるか
「生きづらさ」があるので、そんな自分だけを見つめて生きるのかは自由。
ただ
時間もまた有限。
どれだけ「生きづらさ」があろうとも、いつか誰とも触れ合うこともなくなる死がやってくる。
その時にもっとやっとけばよかったなーって
なるより
散々人と関わり
傷も増えたがその分
他者の痛みを自分の痛みと
できるようになったなら
「生きづらさ」が
自分だけではなく
みんなの
「生きづらさ」を
シェアして
「生きづら」いから
生きるに値する時間って
みなせるようになるとよいな。
「生きづらさ」の告白は
第一歩。
そのあとは
そこにとどまるのではなく
みんなが「生きづら」いなら
みんなでその痛みに耳を傾けようという
自我を離れる方向性の時代になると良いな。
自己肯定は
だいじだが
なによりだいじなのは
他者を否定しないこと。
きっと
他者をだいじにできたら
それって
知らずに
他者をだいじにできる自分への愛
になるんだろうな。
他者がいて
その差異として
自己は浮かび上がる。
自己肯定とは
他者を含めた
世界の肯定。
自分だけを愛することは
きっと一番難儀なんだよね。
誰かを受け入れてはじめて
自分を好きになれる。