太母さんのこと

1989年のある日、インドのOSHOのもとを、一人の年老いた小柄な日本人女性が訪れていた。彼女は若くして悟りを開いた人として知られていた仏教者であった。
菊池霊鷲(りょうじゅ)さん(1908-2001)は、通称「太母(たも)さん」として我々には馴染のある方であった。鎌倉腰越の龍口寺から程近い小さなお寺に、弟子たちと共に住んでおられた。
明治41年に富山県の浄土真宗のお寺に生まれた太母さんは、祖父によってその宗教的天分を見抜かれ、幼少の頃より独特の養育を受けて育った方である。その教育方法は、持って生まれた資質に余計なもの(条件付け)を加えずに、ただ大自然の中に開いていくことを助けるというようなものであったらしい。22歳のとき悟りを得て、世界に対するご自分の使命を強く自覚されたもののようである。

OSHOの所に旅をするきっかけとなったのは、次のような事情によるものであった。
太母さんのもとを、OSHOの日本人弟子たちが時折訪ねて来ていた。太母さんは非常に不思議に思ったそうである、これほどに感受性が豊かで明るく、世間に染まらないような子たちを一体誰が育てたのだろうと。
太母さんはOSHOの健康があまりすぐれないことを聞き、ご自身の溢れんばかりのエネルギーを与えようと思われたらしい。しかしこの訪問によって逆に彼女は、世界中の瞑想家たちの広く知るところとなった。
OSHOは彼女の悟りを認めて歓迎したが、次のようなメッセージを添えることを忘れなかった。(原文では何とあったか性格には憶えていないが、大体次のような意味であった)
「悟りはそこで終りではない。悟りは乗り越えられて、それさえも捨て去られなければならない」と。
禅でいうところの「両忘(りょうぼう)」ということだろう。迷いも悟りも共に忘れ去られて、当たり前のただの人になるということを意味している。しかしこれはまことに非凡なことであるのかも知れない。

太母さんの生前、鎌倉のお寺を友人と一緒にお訪ねしたことがあった。炬燵を囲んでいろいろなお話を伺うことができた。あれは何度目かのインド行きの直前のことであったが、そのことをお話しすると意外にも太母さんは、「何でインドにまで行かなくてはならんかねえ」と仰った。この日本、そして「ここ」には全てが揃っているじゃないの、と言っておられるようであった。「はあ」と言い淀む私。「まあいいわ、行ってあなたの力を発揮していらっしゃい」とのことだった。まだまだ悩んでいる時だったので、発揮するような何も自分は持っていないよなあ、と心の中で呟いていた私だったが。
炬燵の上には大きな水差しがあり、「これは裏山から涌いてくる良い水だから、たくさん飲みなさい」と再三勧められた。自然主義者というのではない文字通りの自然人であった太母さんは、人工的なもの・人為的なものを非常に嫌った人であった。水と空気と土を汚さない生き方ができればそれだけで充分だと考えておられるようだった。

帰りに本と小冊子をいただいた。本は「慧日」と題された厚いもので、ご自分の自伝的小説風の作品で驚くべき内容になっている。「この本はここを卒業した人にしか渡さないんだが、まあいい、持っておゆきなさい」と言われた。
もう一つは小冊子で、「舟を岸につなぎなさい」というものだった。これは、仏眼を開いた太母さんが、その仏の眼でもって、人間と現代文明のあり方を根本から問い、警鐘を鳴らし、危機から脱するための処方箋を示したものだ。
太母さんという呼び名は、人類全体の母、生きとし生けるものすべての母というような意味なのだろう。このメッセージは、その母の叱責の声であり、万霊を代表したものの声だと言える。しかしこういったメッセージは、破滅に向かってひた走っているかのような人類に届くだろうか?私は、そうそうは届くまいと見ている。太母さんの言葉は、あまりに超越的で、一般からは懸け離れているように見える。その懸け離れたところ(悟り)から、一方向的に(やや高圧的に)語られている嫌いがある。悟りから話さなければ意味がないが、さりとて、悟りだけでは我々には消化し切れない。高い悟りの世界から、我々の迷いの世界に、少し降りて来なければならないのではないだろうか。

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