十八番(おはこ)

インドの古い仏典(無量寿経)には次のように書かれている。
遠いむかし、法蔵という菩薩がいて、次のような願い(誓願)を立てた。
「もし私が仏に成ろうとするとき、生きとし生けるあらゆるものが、心から信じて、私の国(浄土)に生まれたいと願って、わずかに十念したとして(十回ばかりも念仏したとして)、もしそれで私の国に生まれることができないようなら、私は正覚を取りません(仏にはなりません)」

法蔵菩薩には、四十八の誓願があって、そのうちの第十八番目がこれになる。これが最も大事な誓願だというので、これを「本願」と言っている。
「十八番」と書いて「おはこ」と読むことがあるが、それはここから来ている。歌舞伎で、最も大事な奥義が書かれたものを箱に入れて大切に保存したそうである。それで、最も得意な芸のことを十八番(おはこ)と呼ぶようになった。

法蔵菩薩の第十八願は、仏教のおはこである。
法然・親鸞の念仏の教えのエッセンスも、この第十八願、すなわち本願をめぐってのことになる。
ところで法蔵菩薩は、はるか昔に、とっくに成仏して、阿弥陀如来となった、ということになっている。
これはどういうことかと言うと、人が心から阿弥陀仏の名を唱えたならば成仏する、ということが、すでに既成事実になっている、ということを意味している。ちょっと念仏しさえすれば、成仏は約束されているというわけなのだ。

回りくどいことを言わなければ、すなわち、衆生本来仏なり、ということである。人は、そもそもが初めから仏であった、ということになる。南無阿弥陀仏と唱えるのは、それを想起し、確認する作業なのであり、南無阿弥陀仏と念仏するから仏になるのではない。仏が仏であることを思い出すのに過ぎない。
はじめは思い悩んで、仏に近づこうとする、それはそうだろう、しかし、よくよく気が付いてみれば、初めから仏であった、何のことはない、そのことを覚するのが仏教だ、とそのようなことにしておきたいのである。ブッダとは、覚者と言う意味なのだから。

日本人の(先鋭な)仏教者たちが、その理解の地点に達したのが、実に、鎌倉時代であった。鈴木大拙博士は、それを日本的霊性と名付けた。これは主に、禅と念仏によってもたらされたのである。

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