苫米地英人さんの書評

苫米地英人(とまべちひでと)さん(1959-)の名前は、大分以前から知っている。
詳しくは知らないが、大変優秀な科学者であり、また多才な人であるという印象である。
特筆すべきは、仏教にも詳しく、ご自身、天台宗の僧籍にあるということだ。と言っても、どこかのお寺に入って仏事・儀式を行っているようには見えない。真理の探究の上で純粋に仏教に向き合っておられるのだろう。

苫米地さんのことを取り上げたのは、ある本の書評を書いておられるのを見つけたからだ。
その本は、OSHO講話の翻訳本「草はひとりでに生える」というものだ。

復刊された「草はひとりでに生える」

原著は「Grass Grows by Itself」(1978)である。翻訳者は、マ・アナンド・ナルタン(日家ふじ子)という人で、OSHOの日本人弟子の中でも最も古い一人である。(彼女自身にもOSHOとのことを綴った「インナーラビリンス」という本がある)
この本「草はひとりでに生える」は、いま私の手元にはないが(良い本は人にあげてしまうからだ)、20代初めに読んだOSHOの本の中でも、最も印象に残っている本の一つである。それは日本の禅に関するものであった。これによって私は急速に禅に関心を持つようになる。
「草はひとりでに生える」というのは、「春來草自生(春来たって草自ずから生ず)」という禅語から来ている。(出典は「虚堂録」) 人が手を加えるのではない自然法爾の様(真実の姿)を表現したものであろう。
Spring comes and grass grows by itself.

さて苫米地さんの書評(帯推薦文)を見てみよう。

「OSHOについては日本の伝統仏教宗派は事実上無視してきたというのが現実です。
食わず嫌いかも知れません。
OSHOは禅について沢山語っています。
日本の禅は、唐の時代に道教の強い影響で成立した中国禅をベースとしています。
また、更に日本で独自の発展もしています。
そういった中国、日本での影響を受けずにインドで受け継がれてきたDhyana(ディヤーナ)の伝統のひとつの結実がOSHOの思想です。
OSHOの平易な語り口の中に、ともすれば見落としがちな禅のエッセンスを見つけ出す読書体験を、皆さんにもぜひ共有していただければと思います。」

(引用を終わる)

   ※

大変な見識だと思う。この一文だけで私は、苫米地さんに敬意を払う。
苫米地さんは、OSHOをよく理解する、そして禅のエッセンスに心を寄せる、数少ない人の一人だ。
また苫米地さんは言う、日本の伝統仏教宗派はOSHOを事実上無視してきた、と。
ほんの少数の仏教者だけがOSHOの真価を認めることができた。ほとんどは真価どころか少しの興味さえ抱いていない。私はここに、日本仏教全体の衰退とその限界を感じざるを得ない。俗事にかまけて、そこに真実を求めるこころはないのだ。

しかしながら、伝統仏教の側をも少しく知っている私としては、OSHOへの無視も、同意はできないまでも、わからないでもない。傑出したものは、いつの時代でもそのように扱われるものだからだ。
白隠禅師のような人でも同じであった。今でこそ臨済宗の中興の祖などと言って持てはやされているが、当時の「正統な」仏教者たちの多くは、禅師の言動に眉をひそめた。禅師の真価を掴むことが出来たのは、やはり少数の誠ある人々でしかなかったのだ。

白隠さんを煙たがり、OSHOを無視するような仏教者を私は決して尊敬しない。
彼らは自己保身のチキンだ。
話しは別だが、今日、mRNA事件に声を上げないような仏教者もチキンだ。
難しいことなど語らなくてもよい、当たり前のことを当たり前に言えるならば、それだけで立派なことだと思う。

苫米地さんの9年前の対談

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