峨山慈棹和尚伝 7
白隠禅師遷化(1768年)の後、峨山禅師は、永田の月船禅師の元に帰ってきた。峨山禅師にとって師・月船は、あくまで父のような存在だったのだろう。月船のもとを去って、白隠のところに去ったというような図式では決してないことがわかる。
峨山禅師はこの後、どのような因縁があったものか、江戸・湯島の天沢(てんたく)に住している。天沢とは、天沢山・麟祥院(りんしょういん)のことで、春日局(かすがのつぼね ; 徳川家光の乳母)開基の寺院として知られている。このお寺の前の通りを春日通りというのも、この人の名前に由来している。
峨山禅師はこの麟祥院においてはじめて、法を説き始めた。虚堂録会(きどうろくえ)を設けた時には、五百余の衆が集まったという。この方会には何と、東嶺圓慈禅師と遂翁元盧禅師が応援に駆け付けている。おそらく独参等を分担して受け持ったのではないだろうか。同門の大先輩にあたる両巨頭が、こうまでして力を貸したということは、いかに峨山禅師の仕事に期待がかけられていたかを物語っている。
天沢にあること十年であったが、時に師・月船禅師が示寂(1781年)したため、永田が寂寥としてきたことを憂いて、峨山禅師は再び永田に帰ってきて、東輝庵の跡を継いでいる。これより永田二世の峨山和尚として、天下に知られるようになり、学徒が続々と集まるようになる。
後に再び天沢において、碧巌会を開いたが(1789年)、集い来る者五百余衆。やはり東嶺、遂翁の両禅師が応援に見えている。
実はこの年、遂翁禅師は病気がちであった。峨山の法会のため江戸に向かうことを、弟子たちは何とか駐(とど)めようとしたが、師は聞き入れなかった。「宗盟なのだ」というばかりだった。「盟」という字は、「誓う」という意味があり、何か人間世界の都合を超えたところにある「約束」といったニュアンスを示唆しているように感じられる。とにかく命を懸けるほど重要な方会だったということなのだろう。事実、遂翁禅師はこの法会の帰途、暑に当たり、松蔭寺に帰るや床に臥して遂に起たず、そのまま遷化してしまったのである。
もう一つ、東嶺禅師のエピソードを紹介しておきたい。
禅師が江戸・小石川の至道庵で虚堂録を講じた時(1785年)のことである。(小石川至道庵については以前に詳しく取り上げた事がある) 講義が「乾峰法身三種病」というところまで到ると、次のように言った。
「この一段の因縁(公案)は、実に格外(別格のもの)である。今日はここで止めておこう。聞くところによると、峨山和尚は解制の後、永田よりやってくるという。その時に講ずることにしよう」
峨山和尚がやってきた時に、禅師は続きを講じられたが、いつもとは全く異なるような内容であったという。
峨山禅師は指導者として立った後でも、常に謙虚に学び続け、先輩達もまた惜しみない助力を与え続けたということなのだろう。こういったエピソードに、峨山禅師という人の人柄がよく顕れているように思われる。
(ALOL Archives 2012)