慈悲のゆくえ

夢窓国師「夢中問答」において、足利直義と夢窓国師はの次のような問答をしている。(第十四段)

足利直義
実に生死の苦をうけたる衆生ありと見るにこそ、これをあはれむ慈悲もおこるべきに、それらは愛見の大悲ときらふことは何ぞや
もし一切衆生みな如幻なりと見る人は、いかでか慈悲もおこるべきや

仏教で「愛」というときは、「愛着」の意味で、決して良い言葉として使われてはいない。それは渇愛・愛慾など、強い欲望(迷いの根源)を暗示している。愛見の大悲は、気の毒な人を見て、ああ可哀想だという感情的な(だけの)慈悲ということになる。しかしそれはそれで、たいへん人間的なものだと思われる。足利直義の疑問も、もっともなことだと感じられる。
また、一切衆生は幻の如しなどと、観念的に悟り澄ましていて、どうして慈悲心が起きるでしょうか、と突っ込みを入れている。これもさもありなんである。直義は一般人の想いを代弁しているかのようである。

これに対して、夢窓国師は次のように答えている。

世間の乞食に二しなあり
或は本(もと)より非人の家に生まれて、幼少よりいやしき者あり
或は本は貴人の家に生まれて、思ひの外におちぶれたる人もあり
かの二人の乞食の中に、本は貴人なるが、らうろうとして乞食となれるを見るときは、あはれむこころの起ること、本より非人なる者を見るよりも、ことさらにふかかるべし
菩薩の慈悲もかくのごとし
一切衆生、本より諸仏と同体にして生死(しょうじ)の相なし、無明の一念忽ちに起こって、生死なき中に生死の相を生ぜること、夢のごとく幻のごとし
然らば即ち、大乗の菩薩の衆生を見ることは、貴人の家に生れたる人の、思いの外におちぶれたるを見るがごとし
小乗の菩薩の、実に生死にしづめる衆生ありと見て、愛見の大悲をおこすには同じからず

これは法華経の長者窮子(ちょうじゃぐうじ)である。
白隠禅師の「坐禅和賛」の中にも、
たとえば水の中に居て、渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて、貧里に迷うにことならず
とある。
自性(仏性)を悟った者は、あらゆる人々(あらゆる生命)の中にも仏性が宿っていることを、心眼によって見抜いている、
衆生は本質的に(は)仏なのである、
と仏教のマスターたちは、そのように教えている。
我々迷っている凡夫(一般人)は、元々がブッダ(覚者)と同じである。
我々は、眠りこけたブッダである。ブッダではあるが眠りこけている。
眠りこけてはいるが、ブッダであることに変わりはない。
そのブッダであるはずの者が、何とも不自由な暮らしをし、あらゆる愚行を繰り返している、その悲喜劇、それを憐れまないで何を憐れむのか、
夢窓国師は、そのように述べているようである。

わがOSHOも、こんなことを語っていた、

あなた方に慈悲など必要ない
あなた方はハンマーで打たれなければならない
頭の上から痛烈に打たれなければならないのだ
あなた方の苦しみなど、偽物だ
エクスタシーこそがあなたのまさに本性だ
あなたは真実であり
愛であり
祝福であり
自由なのだ

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