慈雲尊者伝

釈定光老師が大正11年に開いた不二般若道場は、臨済宗の禅を忠実に受け継ぐ坐禅道場である。しかし般若道場は、新しい時代に即した在家主義を標榜し、伝統仏教の宗教臭さを取り払って、仏像等余計なものを置くこともせず、簡素な道場には、ただ「魔訶般若波羅蜜多」の一軸が掲げられているのみであった。定光老師は、この在家道場の指導者となる者は、戒律を具足した本物の出家者であるべきだと考えたようである。般若道場のことを別名で「釈迦牟尼会」という(釈尊の原点に還ろうというのだろう)。釈迦牟尼会の二代目を受け継いだ苧坂光龍老師(武蔵野般若道場)は、それに反して、自ら在家の立場として立った。と言っても、世俗の仕事に就かない純然たる宗教家ではあったが。これも時代を見据えた一見識であったのだろう。この人のカリスマによって、釈迦牟尼会は禅道場として知られるようになり、大いに発展することとなった。

釈定光老師は、もともと真言宗の釈戒光老師のもとで出家した人である。真言宗での法脈をたどってゆくと、それは慈雲尊者に行き着く。般若道場には、「理長為宗(理の長ずるところをもって宗となす)」という根本精神がある。一宗一派にとらわれずに、良いものは何宗からでも学ぼうというのである。これこそは慈雲尊者の主張した点であった。「宗旨固まり祖師びいきを排す」と言っている。般若道場には(誰もこのことを指摘しないようなのだが)確かに慈雲尊者の教えが受け継がれているように思われる。

慈雲尊者の伝記(特に前半生)を見てみると、まことに面白いものがある。今回それを少し取り上げてみたいのである。
慈雲尊者は、大阪中之島の武家の生まれで、13歳のとき、父の遺命によって貞紀和尚について出家している。しかしそれは本心からの出家ではなかったらしい。
子供の頃から、儒者たちが仏教を悪しざまに言うのを聞いて育ったため、心の中では仏教を嫌い憎んでいたという。やむなく出家はしたが、ある程度仏教を学んでから還俗して、仏教を攻撃してやろうと決心していたそうだ。
しかし慈愛深い師のもとで、瑜伽(ヨーガ)行をしていた15歳のある日、神秘体験をして、総身に汗が流れ、このとき前非を悔いて、深く仏教を信ずるに至ったという。
師は尊者の将来を嘱望して、広く学問をも学ばせた。

しかし19歳のころ、「釈迦の精神は、言葉・文章の上からだけでは得られない、自分の心そのものを明らめなければならぬ」として、禅に心を寄せるようになった。
24歳のとき、師の反対を押し切って、信州・正安寺の大梅禅師に本格的に参禅した。留まること3年、ついに自らの本心に突き当たった。大梅禅師のところで得たものは絶大であったが、やがて一方で見解が禅師と齟齬するようになり、苦しむこととなった。伝統の禅(祖師禅)を受け継ぐ禅師に対して、尊者の求めていた仏教は、釈尊そのものに回帰しようとするものだったのかもしれない。これを如来禅と言うことがあるが、禅の人は祖師禅をもって、如来禅から一段と歩を進めたすぐれた禅だと自負するはずである。尊者はまた違った、より広い無条件な世界に、仏教の原点を見い出そうとしていたのであろうか。

26歳で、大阪に帰って来た尊者の胸中には、参禅によって得た一つの悟りと、同時に失望とが同居していたようである。周りに同道唱和の人があるはずもなく、尊者は深い孤独感に陥り、かくなる上は山中にでも籠って、そのまま朽ち果ててしまいたいと思うようになった。鬱的な引きこもりの危機だったのかもしれない。悟った人でもこんなことになるのだろうか? これは一つの見地には達したが、まだ本当の抜け切った悟りではなかったと見るべきではないだろうか。

27歳、大阪・東のはずれ、布施高井田の長榮寺に住した。このとき本師から譲り受けた弟子の中に、愚黙親證(ぐもく しんしょう)という非常に純粋な少年僧がいた。まだ16、7歳であったらしい。愚黙は、尊者の信州での禅修行のことを根掘り葉掘り聞きたがった。尊者がもはや以前の尊者ではないということを如実に感じ取ったのだろう。それで尊者は、少しずつ教えていたのだが、やがて愚黙は了悟するに至った。
内に籠りがちな尊者に、愚黙は声を励まして言った、
「このような法があれば、私のような者でも合点がいくものです。ましてこの世には志のある者もあり、上根上智の人もいないではありません。どうか山に入るなどと言わないでください。」
「ワシは不徳な者で、世間を見ても同情する心など持たない。どんなに説いたとしても肯う人などいまい。無理に人のためにしようなどとは思わない。」
「それは畢竟、菩提心がないというものです。人が肯う肯わない、ということではないでしょう。この末法の世になって、真正の法がなくなってきた時に、これを見捨てて自分だけ良ければよいとは、どういうことでしょう。せめて三年なりとも法を説いてください。その後は、山に入ってくださっても結構です。」
愚黙は涙を流して諌め訴えた。
尊者は真正な人であった。弟子の分際で何をほざく、とは言わなかった。これを深く了承したのである。その三年の間に、尊者の中には、やがて人々に対する大悲の心が沸々と芽生えはじめていた。尊者が尊者としての本心に目覚めたのである。
「粉骨砕身すとも自らやむことあたはず」 尊者30歳のときの言葉である。
尊者は自らの信念を恐れることなく語り始めた。

尊者33歳のとき、最愛の弟子愚黙は、24歳の若さで没してしまった。悲しい哉、悲しい哉・・・。
愚黙は、尊者の精神的苦境を救うために遣わされた菩薩であったのだろう。
尊者は若い時分に、千人の師に就いて学ぼうと志を立てた人であった。しかし尊者に最大の導きを与えたのは、千師ではなく、純真無垢な弟子の熱誠であった。

この逸話では、学ぶということの本質が語られているように思う。偉大な師だから頭を下げて学ぶのだろうか?さほどでない人物には一顧だに与えなくてよいのだろうか? 悟った人、権威ある人にヘイコラするのは簡単だ。しかしそれは金持ちにすり寄ってゆく貧乏人とさして変わりがない。学ぶ人は、ネコからでも学ぶことができる。師があって弟子があるのではない、学びがあるところ、そこに師性(マスターシップ)があり、弟子性(ディサイプルシップ)があるのだ。自分が「わかっている」と思っている人は、学ぶことができない。それはエゴイスティックな人間根性というものだ。

みづから心をしらず
此しることなきところ
よく諸佛の師となる
   慈雲尊者


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