生駒道顕老師の 鉄牛の機 2
風穴和尚いわく
祖師の心印、状(かたち)鉄牛の機に似たり
この公案は、生駒道顕老師の修行人生において、決定的な意味を持つものであるらしかった。
すでに初関(最初の公案)を透って、何年もが経っておられたようである。見性(けんしょう; 悟りの一瞥)の体験によって、禅の基本は把握され、すでに一つの見地を確立しておられたことだろうと想像する。
ところが、この公案に来て、行き詰ってしまわれたのである。それもそのはず、これは古来、透るのが難しい厄介な公案の部類に数えられているからだ。スランプと言うべきなのか、成長はパッタリと止まり、先に行くことはおろか、引き返すことも、もはやできない。八方塞がりである。
毎日毎日、数度の参禅に行くのだが、師の山田無文老師は、無言のまま、ただ鈴(れい)を振るばかりであった。「鉄牛の機」は如何とも掴むことができない。何の突破口も見出せないまま、絶望的な参禅は、虚しく鈴の音を聞くばかりであった。無限に続くかと思われた絶望の中、それはまるまる三年にも及んだという。毎回、無言の否定ばかりが続いた。
あらゆる言葉も論理も失われていった。あらゆる希望も失われていった。闇はどこまでも深まっていった。
と、三年目のある日、道顕老師は、突如として「鉄牛の機」を会得したのだ。老師は、深い感慨と感謝を籠めて、このように言われた。
「ここに来てはじめて、私はほんとうに楽に、自由になりました」と。
道顕老師が一大転換を迎えた(大悟した)瞬間である。
西方・美濃から、わざわざ東方・鹿野山まで、道顕老師がやって来た真意は何なのか? それはこの体験を伝えるためであった。これは、病によって死を間近に予感した老師が、自らの瞑想体験の精華を、最後に分かち合おうとしているかのようであった。何かがとても切迫していた。確かに、このほとんど最後の提唱は、禅の道を歩む人々への、ひとつのギフトであった。因縁によって、私はその場に連れて来られていた。
この公案を与えられて、行き詰ってしまわれた老師であったということだが、おそらく何か非常に重大で価値あることが、秘かに進行していたのではなかったであろうか。小さな悟りの体験を超えて、何か途方もない世界が開かれようとしていた。無文老師には、それがすでに見えていたのに違いない。夜明けは、すぐそこまでやって来ていたのだ。
ここに来ては、もはやどんな言葉もアドバイスも役には立たない。むしろ障害になるだろう。禅マスター・無文は、無言のまま対峙し続け、鈴を振り、追い返すばかりであった。これは冷酷で無慈悲なようにも見える。弱り切った弟子にかける、暖かい言葉の一つもなかったということは。
しかしまた、このような仕打ちができるということは、弟子に対する大いなる信頼があったとも言える。道顕老師の側でも、師に対する信頼が揺らぐことはなかったのだろう。
鉄牛の機。何ものにも揺らぐことのない、堅固で強靭なものの持つ働き。それは、如何にしても動かすことのできない圧倒的な障壁でもある。そこには、如何なる論理も理知も届くことがない。そこに至る道などないのだ。
窮しに窮し切ったとき、あらゆる望みが虚しいものとなったとき、とことんまで追い込まれたとき、道顕老師が見たものは何だったのであろうか?
おそらく・・・無文老師の三年にわたる完全な沈黙と厳然たる否定、それこそは鉄牛の機の当体であった。鉄牛の機を行じていたのは、むしろ無文老師であった。大三昧に入って、身を以て示していたのに違いない。何があっても動ぜず(動じたとしても見失わず)一行をもって突き進む決意と覚悟。
道顕老師が「それ」を見たとき(見る人なしに見たとき)、その鉄牛は、道顕老師その人となった。深い瞑想の中にある鉄牛は、冷厳なように見えて、実は、いのちを育む慈悲の働きであった。鉄牛は豊かな法乳を秘めている。
沈黙は、死んだ沈黙ではなく、台風の目のように、強大なパワーを帯びた生きた沈黙であった。そしてその沈黙の眼差しは、シークレット・ラブ(秘められた愛)であった。圧倒的な愛の潮流は、あらゆる障壁を流し去って行った。
そのとき、道顕老師は、ひとりの禅マスターとして生まれ変わったのだ。
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