現代と瞑想10 丹田
平野宗浄老師と、西野皓三氏が対談したものが記録になって残っている。それは、瑞巌寺本堂にある文王の間(国宝)において行われた。今から二十年以上前のことである。
取材したジャーナリストは、この時の印象を次のように語っている。
「岩のように低くどっしりとした平野宗浄。背中がゆるりと伸びた西野浩三の正座姿。どちらも達人の<気>を発しているように思えた。」 「気の力」生江有二著
この本に収録された対談の中で、「丹田」について語り合っている部分を取り出してみることにする。
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平野 「私も昨年の春頃からやかましく言っているのですが、坐禅するときには絶対、りきんだらいかんと。これ、西野流ですよ。力を抜けと教えています。坐禅すると、ほとんどの人がグーッと頑張り過ぎ、丹田に力を入れてしまう。これ、だいぶ違いますね。
西野 「違うんですよ。武道の世界も同じで、丹田を意識しすぎるんです。ですから自在に動かなくなる。真剣になるほど集中しすぎて、すべてが見えなくなる。意識しすぎると角度の狭い見方しかできなくなるんですね。」
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平野 「それと先ほども言った丹田ですが、丹田に力を入れるのではなく、その気持ちをからだ全体に回さんといけないのですね。」
西野 「ええ、丹田一点ではいけない。丹田と語ったときには、もう、丹田ひとつだけにこだわっている。」
平野 「あ、そうです。そうです。」
西野 「だから一はすべてで、すべてが一なんです。つまり、からだ全体がすべて丹田になるような感覚を持てば、これは丹田になるんですな。だから、どうしても丹田だけ、と思ったときは、丹田をもとらえることができないんですね。」
平野 「すると先生、多元充足(※)というのは、その感覚ですか。」
西野 「そうなんです。多元充足とは全身を丹田にすることです。全身丹田。これ、極意中の極意ですよ。」
平野 「とうとう出てきた。(笑)」
西野 「今までの丹田というのは下腹部の臍下丹田だけをさしていましたね。」
平野 「そうですね。」
西野 「上丹田、中丹田ということはあっても結局、丹田は丹田です。今まで<気>を語る人のほとんどがこの丹田一本槍だった。これがいけないんです。いけないというと、あまりに革命的な言い方なので、私は丹田をふわっと意識すると言っているんですが、本当は<気>の大革命といえる発見なんですよ。」
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※多元充足
西野流呼吸法独特の表現で、まず一元充足(丹田に意識を置いて充足している状態)。二元充足(丹田と、百会すなわち頭頂)三元充足(丹田と両手の三点)。四元充足(両手両足の四点)。多元充足(全身)。これらの充足法を呼吸の動きと共に行うことで、気を活性化していくとされている。多元充足の先には、無限充足という身体の境地があるとされている。
面倒な理論ばかりが並んでいるように見えるが、すべてこれは実際のエクササイズを行うためのもので、体得されてはじめて意味をもってくるのである。
西野流呼吸法にもう一つ重要なキーワードがある。それは「足芯呼吸」というものである。大きな木が根から水分を吸い上げていくようなイメージで足芯(足の裏)から息を吸い上げるというのである。昔から「足心」という言葉はあるが、観念的にではなく、実際に
足を通るエネルギーの流れを捉えるために、敢て「芯」という言葉を用いているのだと説明されている。
私が西野塾に呼吸法を習いに行ったのは、もう20年も前の事になる。まだ60代だった先生ももう86歳くらいだろうか。いまだにお元気で指導にあたっておられるようである。
稽古の合い間に先生は皆に向かっていろいろな話をされたものだが、こんな事を言っておられたのが未だにこころに残っている。
「放射能で草木も生えないと思われていた場所(チェルノブイリのことを言っておられた)にもやはり、植物が生えてきたということです。生きるということはどういうことでしょうか?・・・生きるというのは、もう楽しくて楽しくて仕方がない、それが生きているということですよ」
西野皓三先生。現代に生きるまぎれもない達人である。
(ALOL Archives 2012)
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