生駒道顕老師の 鉄牛の機 1
私が中年になってから禅に出戻りして、興禅護国会に辿り着くまでには、あちらこちらの禅会を訪ねて、師家を物色したものだった。千葉県富津市にある鹿野山(かのざん)禅道場もその一つであった。ここは、マザー牧場に近接している。経営母体も同じで、マザー牧場の社長が、禅にこころを寄せていたため、この禅道場は開かれた(社長の前田久吉氏は産経新聞や東京タワーの創業者でもある)。ここはお寺ではないのだが、本格的な禅堂を備えたなかなかの施設である(だいぶ老朽してはきたが)。開山は、山田無文老師である。
美濃・清泰寺の生駒道顕(いこま どうけん)老師が、摂心を指導しておられるというのを、東京禅センターで耳にして、提唱だけお聴きしに行ったことがある。生駒道顕老師は、山田無文老師の法を嗣がれた方である。無文老師の禅は、系統からすると、天龍寺派からの流れを汲んでいる。私は若いころから、何人かの老師にお会いしてきたが、提唱や講話を聞いただけの方を含めると、相当な数になるだろうと思う。多聞とはこういうことだろうか(自慢できることではない)。
美濃・清泰寺のことは、以前に取り上げたことがある。捨て子だった仙厓さんが引き取られて育てられた寺であり、仙厓さんが横浜・永田の月船禅師のもとで修行していたときの兄弟子にあたる峨山禅師(後の白隠四天王の一人)が、一夏(いちげ ; 修行期間の一単位)、碧巌録を講じた寺でもある。峨山禅師については以前に詳しくご紹介したが、白隠禅師の事実上の後継者となった人である。
また、私が若い頃に参じさせていただいた師である、龍澤寺の鈴木宗忠老師が、子供のころ孤児となったとき、貰われていった寺でもあるということは、私にとって特別なことだ。
そして今また、清泰寺の生駒道顕老師とのご縁である。
さて、鹿野山禅道場に話を戻そう。
提唱の始まる前に、私(たち)はまだ誰もいない本堂で坐禅して待っていた(パートナーと二人で訪れていた)。すると、一人の老僧が、本堂に面した長い廊下を歩いて来られたようだった。
「提唱を聞きに来たというのはあなたたちかね?」
親し気に話しかけてこられる声があった。この方が、生駒道顕老師であるようだった。
「はい、そうです。よろしくお願いいたします。」
「今日は、碧巌録の『鐵牛の機』という則をやります。これは実は、前回やったのですが、今日もう一度やります。今日、色紙を用意しておきましたから、帰りに一枚貰って行ってください。ワシが主事の和尚に話しておくから、忘れんようにね。手ぶらで帰るものじゃないのでな。」
何とも気さくな老師であった。
「ありがとうございます」と一礼する。
道顕老師は、やがて本堂と廊下を隔てる障子の向こう側を歩いて行かれた。と、その途中で、まだ何かを言い忘れたのか、障子の一つがスッと開いて、また老師の姿が現れた。何を言われたのかは憶えていない。大したことは言われなかったと思う。しかし、その動作にただならぬ機微が感じられたように思った。私は坐禅したままスッと合掌礼拝していた。老師はウムとうなずいたか、うなずかなかったか、障子はまた元のように閉められて、そして去って行かれたのである。ひとつの参禅が行われたかのようであった。
なむからたんのう(大悲円満無礙神呪; だいひえんもんぶかいじんしゅ)が唱えられ、インドからの歴代の祖師名が読み上げられた後、提唱が始まった。碧巌録・第三十八則「風穴鉄牛の機(ふけつてつぎゅうのき)」である。(風穴祖師の心印 となっているテキストもある。)
この提唱は、まことに忘れ得ぬ提唱となった。道顕老師にとって、一大転機となった最も重要な則だったのである。健康状態のすぐれなかった老師は、翌年には遷化してしまわれる。すなわちこの提唱は、死の直前の遺言ともいうべきものになった。それは禅にこころを寄せる人々へのギフトとなった。
※
風穴(ふけつ)和尚が、郢州(えいしゅう)の衙内(がない; 長官の住居)に招かれて、上堂して説法した。
「祖師の心印は、まるで鉄牛の機(はたらき)に似ている。
印を押して、印を取り去ると、そこに印字があらわれる。
印を押したまま取り去らないでいると、印としての役には立たない。
印を取り去らず、押したままでもいないとしたら・・・
そもそも印することが是なのか、印しないことが是なのか。」
その時、廬陂(ろひ)長老という人が出て来て言った。
「私にはすでに鉄牛の機があります。師よ、わざわざ印など押さないでください」
風穴(ふけつ) 「クジラを釣って、大海を澄まそうと思ったら、どうしたわけか、泥まみれのカエルが引っ掛かってきたわい」
廬陂(ろひ)、ショックを受けて黙り込んでしまう。
風穴、喝して言う、「長老、なぜ黙っておるか」
廬陂、うろたえる。
風穴、払子(ほっす)で打って言う、
「私が言った話がわかるかね?わかるのなら、もう一度言ってみなさい」
廬陂が口を開こうとした時、風穴は、また払子で打った。
これを見ていた長官が言った、「仏法と王法は似ていますね」
風穴は尋ねる、「何の道理を見たというのですかな」
長官 「断ずべき時には、きっぱりと断じなければなりません。そうでないと、乱を招いてしまいます」
風穴、これを聞いて、座を下りてしまった。
碧巌録 第三十八則 風穴鉄牛の機(ふけつてつぎゅうのき)
※
風穴、郢州(えいしゅう)の衙内に在って上堂して云く、
「祖師の心印、状鉄牛の機に似たり。去れば即ち印し、住すれば即ち印破す。ただ去らず住せざるが如きんば、印するが即ち是か、印せざるが即ち是か」
時に廬陂(ろひ)長老というものあり、出でて問う、
「某甲(それがし) 鉄牛の機あり、請う師、印を搭せざれ」
穴云く、
「鯨鯢(げいげい)を釣って巨浸を澄ましむるに慣れて、却って嗟(なげ)く蛙歩の泥沙にまろぶことを」
陂佇思す。
穴、喝して云く、「長老、何ぞ進語せざる」
陂擬議(ぎぎ)す。
穴、打つこと一払子(ほっす)、穴云く、「還って話頭を記得すや? 試みに挙す看ん」
陂口を開かんと擬(ほっ)す。
穴、又打つこと一払子。
牧主云く、「仏法と王法と一般(おなじ)なり」
穴、云く、「箇のなんの道理をか見る?」
牧主云く、「断ずべきに当たって断ぜざれば、返ってその乱を招く」
穴、すなわち下座す。
※
以上が、碧巌録に出ているエピソードの部分である(拙訳)。
風穴は、臨済義玄禅師から数えて3代目になる、風穴延沼(ふけつえんしょう)禅師(896~973)である。臨済ゆずりの鋭い禅マスターである。
法系は、臨済義玄 ― 興化存奨 ― 宝応慧顒― 風穴延沼 となる。
祖師の心印。これは師から弟子へと受け継がれてきた心のエッセンス、禅の奥義のことだろう。印(判子)というのは、臨済禅師以来、一つの禅的テーマになっている。印を押して、印を取り去り、印字が現れたときには、印を押したという行為は、すでに過ぎ去ってしまっている。理知で捉えたときには、すでに時遅しということであろうか、しかし、理知にはまた理知の働くべき場所もある(理知もなくてはならない)という感じがする。問題は、理知を操っている当体は何者か、ということだ。臨済の禅は、時間の淵源にあるところの「いま」を常に問うているように思われる。
鉄牛は、黄河を鎮めるために祀った鉄の牛だと、禅書では説明されている。頭は河南にあり、尻尾は河北にある、などという説明を見ると、一種の超自然的存在を想定しているようにも思われる。
鉄牛とは一体何だろうと思って、今回インターネット上で、いろいろ調べてみたのだが、いろいろと興味深いことが判ってきた。
唐の時代、玄宗皇帝は、巨大な鉄の牛を実際に鋳造させたというのである。それは高さ1,5m、長さ3.3mで、腹の下に6本の柱が生えて地面に突き刺さっていたという。4体が作られ、重さは何と、一つで55トンから75トンにもなったそうなのだ。これらは、1989年に発掘され、現在では展示公開されている。これらの鉄牛は、何のために作られたのであろうか。それは、このように考えられている。黄河を、多数の浮橋でつないだもので渡れるようにしたのだが、両岸に鉄牛を杭として設置して、橋が流されないように、それに鉄索で繋ぎ止めていたのだ、と。これは、唐が自らの文明の高さを誇示するものであったと同時に、やはり「暴れ龍」と言われた黄河を何とか治めたいという祈りの象徴でもあったのかも知れない。
いずれにしても、風穴延沼禅師の時代、黄河の両岸に、巨大な鉄牛が実際に鎮座していて、観光の名物になっていたことが想像される。
そして、祖師の心印を、鉄牛の素晴らしい働きに例えたと、こういうことではなかったか。
生駒道顕老師の「鉄牛の機」の提唱の話に行くはずだったのだが、だいぶ余計なところに逸れてしまった。
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(ALOL Archives 2012)