峨山慈棹和尚伝 10
写真は清泰寺 (臨済宗妙心寺派)
岐阜県美濃市殿町1439-1
峨山禅師は、美濃・清泰寺の拝請を受けて、碧巌録を提唱している。凡(およ)そ五百の衆が詰め掛けたという。これは1791年のことである。
この年代が知れるのは、東嶺和尚年譜によるものである。このとき東嶺禅師は、すでに龍澤寺を辞して、尾張(愛知県)犬山・瑞泉寺の一塔頭である輝東庵に移っていた。
ここで注意を払っていただきたいのは、峨山禅師の拠点である永田の宝林寺にあったのは東輝庵、東嶺禅師の犬山の庵は輝東庵なのである。これは全くの偶然であり、何もシャレを言っている訳ではない。
東嶺禅師はこの後まもなく、故郷近江の齢仙寺に移り、そこで示寂している。
峨山禅師が清泰寺に赴いた時、その途次、兄弟子であり師でもある東嶺禅師を輝東庵に訪ねている。東嶺禅師は欣々(きんきん)として起ち迎え、手を把って招き入れ、時を忘れて親しく語り合ったということだ。東嶺禅師が72歳で遷化する前年のことである。峨山禅師もこの時、60代半ばの老僧になっていた。
さて清泰寺で碧巌録を提唱したということだが、ご存知のように碧巌録は百則からなるので、毎日講じたとしても、三箇月以上かかることになる。少なくとも一夏(いちげ)の修行期間をここで費やしたものだろう。
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この清泰寺というのは、私にとっていろいろと興味の尽きない寺院なのである。峨山禅師が滞在していたというだけでも特別なのだが、他のいくつかの因縁を述べてみたい。
まず峨山禅師の永田における弟弟子にあたる仙厓義梵禅師が出家したのが、この清泰寺である。仙厓禅師はもともと捨て子であったが、住職の空印円虚和尚に拾われ、育てられたということだ。峨山禅師がこの寺院から拝請を受けたのも、あるいはこの事と何らかの関係があったかもしれない。
それと、千葉県の鹿野山禅道場にご縁のある人ならご存知のように、先年遷化された生駒道顕老師の住しておられたのがこのお寺である。私は二度ほど提唱をお聞きしただけだが、それは決して忘れる事のできない提唱となっている。ポッと現れた私にも気さくに声を掛けて下さり、そのときの会話は今思うと、あたかも独参をしているかのようであった。
もう一つ最近まで知らなかったのだが、龍澤寺でかつて私が教えを受けたことのある鈴木宗忠老師(やはり孤児であった)が出家をしたのも、この清泰寺であったのだ。これにはさすがに驚いてしまった。10歳の時、高林玄寶和尚につき得度したということである。鈴木宗忠老師からお聞きした言葉なども、記憶にあるうちにいささか書き留めておきたいものだと思っている。
思えば、いろいろな素晴らしい人々とのご縁に恵まれているものだと、驚くばかりである。功の多少を計りかの来処を量るに、己が徳行の全欠を憶うばかりである。噫。
(ALOL Archives 2012)