心のやわらかさ
先年遷化された板橋興宗老師は、曹洞宗全体の管長を務められた方だが、大変気さくな方で、私は福井の御誕生寺をお訪ねしたとき、居室に通され、親しくお話を伺うことが出来た。
老師に「心の平和」と題した小文がある。今でも送っていただいている「御誕生寺だより」最新号の巻頭言になっているが、元々は文集「閑々堂」(これもいただいている)所収のものである。
結構ヘビーな内容のものなので、ためらいがあったが、以下にご紹介させていただくことにする。
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心の平和 板橋興宗
むかしあるところに一人のまじめな修行者がいた。彼は、真理を体得し心の平和を得ようと、静かな森の中に入り、大きな樹の下で坐禅を続けた。ところが毎日夕方になると、数百羽の鷺(さぎ)がその大樹の上に群がり来てギャッ、ギャッと鳴く。
その騒ぎによって彼の心は乱れた。鳥たちを見上げて言った。
「鳥どもよ、心の平和を求めて懸命に修行しているのだ。どうか邪魔をしないで別のところに行っておくれ」
しかし、鷺は次の日も次の日も、大群を成して夜遅くまで騒ぎ続けた。修行者の心は乱れに乱れた。ついに、むらむらと怒りが込み上げて鳥たちを睨んで叫んだ。
「もう少しのところで悟りが開けそうなのに、何でひどい邪魔をするのだ。お前たちのために、せっかくの修行がだめになった。このうらみは一生忘れはしない。生まれ変わったら鷲(わし)になって、一羽残らず食い殺してやるぞ!」
彼は泣く泣くその場を立ち去り、静かな場所を求めてさらに山奥に入った。さいわいに深い河淵に面した岩穴を探し当てた。そこで、心静かに夜を日に継いで坐禅修行に励んだ。そこの川淵にはたくさんの鯉(こい)がいて、威勢よく次々に水面に飛び上がって、楽しそうに泳いでいる。
しばらくすると、その静寂を破る水の音が気になりだした。心の平和を求めて焦れば焦るほど、鯉の飛び上がる水音は、心を乱す騒がしい雑音となる。修行に真剣なだけに、彼のイライラは急に高まり、ついにノイローゼになってしまった。
「お前らが邪魔したので、さとりは開けなかった。心の平和は得られなかった。いまに見ろ、大きなカワウソに生まれ変わって一匹残らず食い殺してやるぞ!」
ついに彼は、修行に挫折し、鷺や鯉に万感の恨みを残しながら、深い川底に身を投じてしまった。ところが不思議なことに、たちまち水の中から頭の白いカワウソが現れて、鯉の大群を片っ端から噛み殺し始めた。そのため川は、にわかに真っ赤な血の海となる。そのカワウソはウオッ!と一声ほえると、たちまち大きな鷲となり、鷺の大群のところに飛んで行った。そして大樹の上に群がる鷺を一羽残らず噛み殺してしまった。そのために空からは血の雨が降って来たという。
この世の中を、自分の思惑通りにことを運ぼうとするから無理が出る。じたばた、焦るだけ自分を苦しめ、無心に遊ぶ鳥や魚までも邪魔にし、この世を地獄にする。
自分のふところを大きく広げ、辺りの動きに順応してゆく心のやわらかさが、この世を極楽にする。
信心銘にいわく
「智者は無為なり、愚人は自縛す」
(引用を終わる)
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板橋老師は戦後、まだ学生だった頃に思い悩んで、不眠・ノイローゼを患い、地元仙台の禅寺・輪王寺(曹洞宗)で坐禅を体験するうちにそこから回復することを得、そこで遂に出家することを決意された。
この輪王寺というのは、私も縁があり、子供の頃、そのお寺が経営する幼稚園に入れられていたことがあったのだ(年代はだいぶ違うが)。それを聞かれた老師は大変驚いておられた。それだけではない、不思議な因縁が何重にも張り巡らされていて、ただならぬものを感じたのである。
上の物語は出典不明だが、真面目な修行者がノイローゼになるところなど、ある意味、老師はご自身をオーバーラップさせておられるのかも知れない。
私自身も若い頃、似たようなもので、精神が破綻する寸前で(半分破綻していた)そこから何とか戻ってきたという経緯がある。
老師は私に言われた、「今は精神を病んで苦しんでいる者が数多くいる。あなたは(ぜひともお坊さんになって)、そんな人々を助けなさい」と。老師、小生をちょつと買い被りすぎではなかったかとも思う。ただ、そのような意識を持ち続けることは大事なことであろう。
(※この時の出会いを、小文にしたためたものがある)
上の物語では、悟りを求める一見真面目な修行者が、身勝手な思いで、道を踏み外して行く様が描かれている。こんな修行者は、そもそも真面目とは言い難いし、修行者ですらないだろう。そもそも精神がどこか病んでいるに過ぎない。悟りや心の平安は、この人の欲望・野心になってしまっている。
もし、こう言うことが出来るならば、妄想性脅迫観念質精神障害といったところか。囚われの上に囚われを重ねてエスカレートし、精神を病んでいながら病んでいることがわからず、それを当然・正当と思い、それが自覚できないところまでやって来ている。長い年月のうちにそれは強固となり、いよいよ常人(常識)離れして行く。
修行というのは、そういった妄見・我見を捨てることでなければならないはずだ。
こういったことは、修行者ということに限らず、一般の我々でも同じことだろう。ご近所トラブルでもそんなことがある。
他者や周りの環境をどうこうしようというのではなく、まず自分自身の在り方に眼を向ける、そこに取り組む。それを欠いては全てが無駄事になってしまう。物語の主人公の話は、どこかの誰かの話ではない。ある老師は常々言っておられたものだ「誰のことと思うておる、あんたのことでっせ!」と。
板橋老師の最後の言葉が響く。
「自分のふところを大きく広げ、辺りの動きに順応してゆく心のやわらかさが、この世を極楽にする」
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