峨山慈棹和尚伝 16 卓洲胡僊禅師について

写真は卓洲禅師 頂相 名古屋・総見寺蔵

卓洲胡僊(たくじゅうこせん)禅師。(1760~1833)
尾張津島の人である。
15歳。名古屋・総見寺の祥鳳和尚につき、剃染受戒した。祥鳳、卓洲の俊逸を愛した。白隠禅師の高弟である良哉元明禅師が法叔(ほっしゅく)にあたり、度々その教えを受けた。
19歳。諸方に行脚に出る。美濃で快巌古徹禅師に参じた。その後、道友と共に高野山に登り、また京都に赴いて、霊源慧桃禅師に参じた。快巌も霊源も、白隠下の尊宿である。
名古屋に帰ってきて、白林寺の月鑑和尚に「いま一体誰を師としたらよろしいでしょう。」と相談すると、「関東の峨山和尚に従って参決すべきだろう」と言う。これによってただちに関東を目指した。途中、駿府の菩提樹院で大会(だいえ)があり、遂翁禅師にまみえた。

永田・宝林寺に到着、峨山禅師に相見すると、禅師は「趙州の無字」を示した。以後、卓洲は日夜参求して久しく経たが、どうしても得る所がない。そこで師に願い出て言った「我、侍者寮にいて多事であります。どこかに一人籠って専一に究明させていただきとうございます。」 山「本当に透過できるというのなら、庵居せよ。そうでないのなら左右におって仕えておれ。」 洲「少暇をたまわるのなら必ず透過してみせましょう。」 山「よろしい、それなら九旬(90日間)の暇を与えよう。」 卓洲は一室に籠って、ただひたすらに取り組み、寝食を忘れるほどであった。そしてついに無字を徹見したのである。
しかしその後、「柏樹子賊機」に参じたが、何とも答えることができなかった。三年目にようやく「賊機」を会得することができた。これ以降、一切の話頭、難透難解、十重禁、洞山五位、臨濟四料簡、首山綱宗偈等ことごとく透り抜けた。
卓洲は禅師の侍者を勤めること十四年、潜行密修して、人はその境涯を推し量る事ができなかったという。

37歳。総見寺に帰り、ただ独り修道をもって自分の任とした。次第に雲衲(うんのう;修行僧)が四方から集るようになった。
54歳。三河の三玄院に請ぜられて碧巖録会を開く。これが正式に開法した瞬間であった。これより如法綿密の家風を挙げ、また各地の請に応じて盛んに法会を開いた。
61歳。総見寺の僧堂を改作。
73歳。総見寺を退き、東林寺に老を養う。
天保4年。淡然として坐脱す。世寿七十有四。師の法を嗣ぐものは、記録に見えるだけでも十人を数える。

卓洲禅師伝の中で、なんと言っても胸を打つのは、若き日に無字に取り組んだ三箇月のくだりではないだろうか。生涯の中でのわずか90日間であるが、この体験がのちの禅師の人生の屋台骨になっているのに違いない。三箇月やりましたがやっぱり無理でした、とは言えない状況に自分を追いやったとも言えるだろう。まことに恐ろしい話に思える。

(ALOL Archives 2012)

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