終焉まできみは
いつもの時刻にきみはアパートを出る。
九月の爽やかな空気にきみの心は動かされる。空は高く、微かな風が少しだけ冷たい。季節は確実に移り変わっていく、世界がどうであれ。
空に浮かぶ雲を見上げながら、きみは後悔している。いや、いつか後悔するだろうという予感に襲われている――なぜこんな素敵な日々を味わい尽くすことなく、ただやり過ごしてしまったのかと。
晩秋には乾いた落ち葉を踏んで公園を抜け、冬の朝にきりりと冷えた空気へと白い息を吐く。蕾の膨らみ始めた桜並木の様子を確かめながら職場に急ぐ春の朝、夏の台風が過ぎた後の信じられぬほど澄み切った空気――失ってしまってから気づくのだ、それらすべてがどんなにも貴重なものだったのかを。
あと幾度僕らはこんな気持ちの良い朝を迎えることができるのだろうか――そんなことを思いながらきみは坂を下って行く。
犬を散歩させている老紳士然した人物ときみはすれ違う。アパートの大家だ。彼が連れているのが何という犬種なのかきみは知らないが、濃い茶色の毛並みの良いその小型犬は間違いなく血統書付きだろう。おとなしいので吠えたりするのを見たことはない。きみは歩を緩め、いつものように挨拶をする。
「おはようございます」
大家は顔を上げ、きみに笑顔を見せる。それに後押しされるかのように今朝のきみは次のひとことを続ける。「いいお天気ですね」
「おはようございます。過ごしやすくなりましたね」
そう返す老紳士にきみも笑顔になり頭を下げる。その場を後にしつつ、きみは今の短いやり取りを心の中で反芻する――失礼なところはなかっただろうか、過剰に踏み込みすぎてたりしなかったか――適度なコミュニケーションができたことにきみは満たされたものを感じる。
駅へと向かういつもの道をきみは進む。
マンションやアパート、一戸建てが混在する都心近郊のごくありふれた街並。歩く人の姿はまばらだ。駅が近づくにつれ、その数が少しだけ増えていく。
道すがらに新聞販売店があって、その前の道路をほうきで掃いている作業着姿の高齢男性がいる。掃除をしているか、そうでなければ傍の花壇の縁に腰掛けてタバコを吹かしているか、だ。彼は気さくな人物で、道ゆく人に誰彼となく挨拶をする。きみは新聞など購読したことはないけども、いつかこの店から新聞を取ってみてもいいなと考えている。
きみは遠くから彼の姿を認め、今日の彼は僕に挨拶をしてくれるだろうか、自分から声をかけるような間柄でもないしタイミングが合わなければ黙って通り過ぎるしかない、その見極めが微妙だな、などと身構えてしまう。
そんなきみの思いなど一掃するかのように、彼はきみが近くまで行くとほうきの手を止め、「いってらっしゃい。お気をつけて」と機嫌のいい声をかけてくれる。きみも「いってきます」と軽く頭を下げる。
きみの足取りは軽くなる。
そうしてきみは駅に到着する。小さな私鉄の駅。南側には商店街が広がり、バス停とタクシー乗り場がある。きみの住む北側には数件の店舗が駅前の通りに並ぶだけだ。
きみの前を歩いていた人、向こう側から来る人、皆が小さな駅舎に吸い込まれていく。きみも同じ様にその流れに加わる。
すぐに改札があり、そこには数台の改札機が並んでいるが、久しく前からその電源は落とされている。きみはそこを通るとき、自分でも気づかぬほど僅かに緊張する。定期券のタッチの仕方が悪くてゲートを閉じられてしまったかつての苦い体験が未だ尾を引いているのだ、後ろに続こうとしていた人の舌打ちの音と共に。
今はもうそんな心配などない。改札とは名ばかりで、ここは誰でも素通りすることができる。
きみは改札からホームに向かう。エスカレータの併設された上り階段へ。多くの人はエスカレータに乗るために列を作るが、きみはそれを脇目に階段を上る。多少体調が悪い時でもきみは階段を使う。自分がそうする理由はわかっていない。
ホームには電車を待つ人々の姿が、それぞれのホームドアの前に一人か二人ずつ分散して並んでいる。きみもそれらの列のひとつの後ろに並びつく。いつもの位置だ。
以前のきみは毎朝のように、そこで電車を待つ間、周囲に並ぶ人たちに対して反感や苛立ちのようなものを覚えていた。列の前の人との間隔を空けすぎている人、とか、ホームの地面に書かれている乗車列のガイドラインからはみ出ている人とか、そういったのを目にするたびにきみは本当にイライラとしていた。もちろんそれを表に出すことはなかったのだけれども。
昨今は皆がきちんとマナーを守るようになったときみは感じている。降りる人がまだ車内に残っているうちからさっさと乗り込もうとする輩とか、以前にはよく見かけた。今はもうそんな光景を目にすることはない。きみは安らいだ心持ちで通勤の電車を利用できる。
電車がホームに滑り込んでくる。時間通りだ。もう久しくきみは電車の遅延になどにも遭遇したことがない。
前の人に続いてきみは電車に乗り込む。目についた近くの空席にきみは足を向ける。きみの行動を察知した両脇の乗客はちょっとだけ体をずらして席に座りやすくしてくれる。きみは軽く頭を下げ、ゆっくりとした動作で腰掛ける。
電車は動き出す。きみはそこで揺られる。
三年後に月が地球に激突する。そのときまで日常を続けることを選んだ人々のあいだで、きみは心穏やかに日々を過ごすだろう。
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