永遠の微睡

 世界が夕陽の色に染まっていた。
 見渡す限りのなだらかな起伏のある草原、遠くにはところどころに十メートルほどもありそうな樹が数本ずつ身を寄せ合うように葉を茂らせていて、夕焼けを背に影となって点在している。
 唐突に「家族」という言葉が私の脳裏に浮かんだ。幾つかの樹々がひとかたまりの影を形成している有様からそれを連想したのかもしれない。
 そして樹々からは少し離れてひとつのあずまやが地面に長い影を描いている。その傍には屋外用の小さな丸テーブルにチェアーが数脚。それから、ひとつの人影――逆光のためによく見定めることはできない。
 だが、もちろんその影が私の会うべき人物であることは承知している。
 私は右手を庇にして、その遠い人影を見やる。それからゆっくりとそちらに向けて歩き始めた。
 やわらかい風が吹いていて、わずかにそれが葉を揺らす音だけがあたりを包んでいた。かすかな土の匂い。
 独りでいることを選ぶひとは、罪の意識を抱えていることが往々にしてある。おそらくはこれから私の会うひとも。だがそれが私の仕事の支障になることはまずないし、むしろ周囲に他の人がいないほうが相手の気が散らずに済むのでありがたい。
 なんと静かで寂しい場所――ここは天国? それとも地獄?
 意味のない問いだ。
 解釈次第でどちらにも転びうる。
 そもそもここでは生と死の境界すら曖昧だ。おそらくかの当人には自らが生きているらしき感覚はあるのだろう。たとえそれが幻灯機のスイッチがオンになっている間にだけ眼前に映し出される蜃気楼のようなものでしかないにせよ。虚構の内側に存在する者は、自らを取り巻くその世界が幻でしかないことに気づくことはない。もちろん自分がその一部であることも――理屈である。
 では、私はどうなのだろう。この私もまた、より大きな虚構の一部であるという可能性を誰が否定しえようか。
 それもまた意味のない問い。
 もしも私をとりまく世界が虚構であると知れれば、少しは生きるのが楽になるかもしれないが――。
 丸テーブルに座る人物が、近づいてくる私に気づいた様子を示した。年老いた男性だ。着ているのは白いシャツ。まだ声をかけるには幾分距離がある。表情までは読み取れない。
 敵意のないことだけを意図した曖昧な笑みを浮かべ、私は歩を進める。相手はどんな反応を示すだろうか。事前に聞いている情報によれば男は概ね調査には協力的な態度をとっているというが、今回もそうであるという保証はどこにもない。
 やわらかい草の上を歩く。徐々に男の表情が明らかになる。
 男は満面の笑顔だった。だが、近づくにつれ、その顔つきはなにか、動物園で幼い子供が面白い動物を見つけたときのような表情に感じられた。
 丸テーブルのそばにまで来た私を男はその笑顔のまま見上げている。
「座っても?」
 わずかにも表情を変えることなく男は小さく二度頷いた。
 私は男の斜め前の椅子を引いて、そこに腰掛けた。男は依然としてまっすぐに私を見ている。
「私は霧宮結衣と申します」
 ようやく男の目つきが人間を見るものへと変わった。
「こりゃ、どうも」男は一瞬だけ視線を中空に彷徨わせ、「名乗る必要があるのかな」と続けた。
「いいえ」
 私は小さく首を振る。
「石塚さんのことは存じ上げております」
 ――といっても事前のブリーフィングで聞いただけであるが。
 男は満足そうに頷いた。
 石塚勝はソフトウェアエンジニアだった。彼にとっては晩年にあたる時期に、かのターコニファイと呼ばれたソフトウェアを職業的に取り扱っていた。世界を狂乱の渦へと陥れる元凶となったソフトウェア。もちろん当時は誰しもあんなことが起きるとは夢にも思っていなかったろう。
「お話をお聞かせいただければと」 
「ああ、もちろん」男は即答し、それから言い淀む。「なんでも答えるけど、知ってることなら」
 それだけでは足りない。この男には思い出してもらわないとならないのだ。覚えていることだけならこれまでの担当者が何度も聞いている。
「どうせターコニファイのことなんだろ?」
 片頬を歪めるように笑みを浮かべる男を遮るように私は言う。
「いえ、今日はもっと昔のことを。石塚さんのエンジニアとしてのキャリアの始まりのあたりから」
「そんな昔のこと? まっ、いいけど」
 私は肩に下げていたカバンから小さなタブレットを取り出した。この世界の中では自分の脳外の情報にアクセスする際に象徴としてこういったデバイスを手にする。そこには実際に情報が表示される――私としてはそれがどこに描画されようと構わないのだが。この世界は事件関係者の認識を損なわないように実装されているのだ。脳のみを低温保存され、情報を引き出すときにだけこうしてバーチャルの世界にその生命をリストアされる彼ら――永遠の微睡の世界に生きることは彼らにとってどんな意味があるのだろうかとふと考え、それもまた意味のない問いと気づいた。

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