イリュージョンの起こるところ:映像演劇『ニュー・イリュージョン』をめぐるオンライントーク
映画監督と語る映像演劇
舞台の上に立つ一対のスクリーンに映し出された男女は、昨日までその劇場で上演されていたという、かつて二人が暮らした部屋を舞台にした演劇について語り出す——。
スクリーンなどに投影された等身大の役者の映像と観客の想像力によって「演劇」を立ち上げる〈映像演劇〉。これまでは美術館や展示スペースで上演/展示をしてきた同シリーズの最新作は、舞台と客席という通常の演劇の形式を踏襲し、劇場空間で〈映像演劇〉を「上演」するものとなった。劇場で映像が立ち上げるイリュージョンはいかにして演劇となり得るのか。
2022年8月21日(日)、映像演劇『ニュー・イリュージョン』初日の公演終了後、作品をめぐるオンライントークが公演会場となった王子小劇場から配信された。出演はゲストに映画監督の三宅唱、『ニュー・イリュージョン』の作・演出を担当した岡田利規、岡田とともに映像演劇のシリーズに取り組んでいる映像作家の山田晋平、『ニュー・イリュージョン』出演者で三宅作品にも出演している俳優の足立智充、プロデューサーの水野恵美、制作の遠藤七海。映画監督ならではの視点からの感想や質問にクリエイションチームがそれぞれの立場から答えるトークは、映像演劇について考えることを通して「演劇とは何か」「映画とは何か」という問いにも触れるような興味深い内容となった。ここではそのトークから一部を抜粋してお届けする。
何もない空間を見る
三宅:昼に『ニュー・イリュージョン』を見たばかりで、まだ整理がついていない状態なんですけど、これは作品が意図したものを僕が受け取めているのか、それとも僕は演劇は門外漢で素人みたいなものなので、勝手に楽しんじゃっているのか……。そのあたり、感想もお伝えしつつ、質問もしつつ整理しながら進めていければと思います。
見はじめてしばらくして、足立さんが足をトントン鳴らすところでまずはハッとしたんです。なんでかはっきりとはわからないんですけど「あ、同じ空間にいる」みたいなことを思ったのかもしれない。そこで見ているこちらのギアが一段入った感じがしました。それで、椎橋さんが話しながら下手から上手へ移動していくと、下手側のスクリーンからは一回フレームアウトして、でも姿が見えない状態でセリフは続いていて、そのまま上手のスクリーンにフレームインしてくる。そこが最初に面白いことが起きはじめたと思ったポイントですね。
俳優の舞台上での動きというのは岡田さんが演出しているんですか?
岡田:いつもの演劇では具体的に正確な動線を指示するということはそれほどやってないです。今回の場合は他の作品に比べると僕が決めている部分は少し多いくらい。ただ、コンセプトは事前に俳優と共有してます。たとえば見えないところにいるということが面白いとか、フレームに映っている一人が映っていないもう一人の方を見ていればそれは明らかにそっちにもう一人がいるということになる、とかそういうことですね。
三宅:なるほど。ちょっとクリエイションのプロセスとは順番が逆になるかもしれないですけど、舞台上にスクリーンが2枚あるというのはどの時点で決まったんですか?
山田:相当早い段階で決まってました。この作品はブラックボックスの劇場で上演できる映像演劇を作ろうというところからスタートしたんです。世界中で再演できる作品をつくるつもりでいたので、想定される劇場のサイズ感も込みで考えて、置けるスクリーンの枚数と隙間のバランスを図面に起こして検討しました。最初は3枚置いたらどうかという話だったんですけど、それだと隙間が小さすぎるということになって。
岡田:この作品では実際の舞台空間と映像の世界の存在感の兼ね合いというのがとても重要なので、それをどうするかということで枚数や隙間の幅を話し合いました。
山田:映像と同時に何もない劇場空間もお客さんには観てほしいのでそれが可能になる比率を考えたということですね。
三宅:じゃあ僕はそれはもうまんまとですね(笑)。俳優が映っていない時間が続くのを見ているうちに、これは「映像を見に来たのではない」んだなということに気づきました。むしろ主役はこの劇場の空間というか。
僕が映画を見る歓びの一つは、映画を見終わって映画館を出てきたらさっき見た風景が全然違って見える、みたいなことなんです。それで言うと、チェルフィッチュの演劇を見たあとは、耳の聞こえ方が明らかに変わっているみたいな経験はしたことがあった。たとえば帰りの電車で近くの人の会話を聞いて、こいつらこういうしゃべり方するんだみたいな。
今日は映像だしどうなるかなと思ってたんですけど、やっぱり耳に関わる問題だと思いました。途中からスクリーンは正直そんなに見ていなくて、2つのスクリーンの間と左右の空間ばかり見ていました。見ていたというかむしろ聴こうとしてた。セリフがないときも色々な音がしていて、そういう音のおかげで演劇の一回性みたいなものも感じながら見ることができた気がします。この音を聞き逃してはいけない、みたいな。演劇は役者を見に来るものだという先入観があったんですけど、今回は隙間ばっかり見てた(笑)。
稽古のときはこの隙間の部分はどうやってたんですか?
岡田:スクリーンの位置をバミったりはしましたけど、基本的には普通に芝居の稽古をしてました。ここだと映るけどここでは映らないよみたいなことは言いましたけど、実際の上演とはやっぱり見え方が違うので、それは便宜的にやるという感じでしたね。
三宅:実際の上演でどういうかたちになるかがわかるのは撮影の直前ということですか?
岡田:キラリふじみという劇場を借りて撮影をしたんですけど、そこに演技をするためのスペースと実際に映像が投影されるスペースを作って撮影をしたんです。だからリハーサルのときは俳優が演技してても誰もそっちを見てない(笑)。
三宅:稽古のなかで立ち位置が変わっていったりということはあったんですか?
足立:途中から見えない面白さを追求し出したような……。
山田:最初はけっこうずっと俳優が映ってたんですけど、それだと面白くなかったので「この台詞のときは誰もいない方がいい」とかそういうやりとりをしながら変えていったという感じです。
俳優の生理と映像演劇
足立:俳優の生理としてはやっぱり映っていたいという貪欲な思いがあるんですけど(笑)けっこう演技が出来上がってきたときにそこは映らなくていいですってなったり。
山田:悪いなと思いながら……。
足立:できたものを見てやっぱり映ってなくてよかったと思いましたけどね。
三宅:映像演劇だと舞台のうえでお客さんの反応を直接受け取ってそれに反応するみたいな快楽はないじゃないですか。俳優にとってはそれはどうなんですか?
足立:リハーサルで考えていたのは、お客さんが映像として見たときにどういう効果があるのか、たとえばどれだけ見切れていたら一番面白いのかということでした。それは映画でもないし演劇でもない、映像演劇の楽しみの一つではあるなと思います。
山田:それは映画と演劇どちらに近いんですか? というのは、撮影している側としては演劇の本番を撮影しているのとほぼほぼ変わらない緊張感で撮影しているので。
足立:撮影のときはそうですね。みんな静かに座って演技をしている俳優を見ていて、そこにはすごく演劇的な時間が流れている。リハーサルではいわゆる演劇と違う脳を使っていても、いざ撮影本番となると普通に演劇で、いつものチェルフィッチュをやってる感覚でした。
観客全員と目を合わせる
三宅:カメラがあるのとないのとでは俳優とのコミュニケーションの取り方は変わりますか?
岡田:俳優に「ここでカメラを見る」という指示をしたりはしますね。カメラがすごいのは、俳優がカメラの方を見るとすべての観客を見ることができるんですよね。舞台上の俳優が観客を見るというのはすごい特別なことなんです。誰か一人しか見れないですから。それが映像演劇の場合はカメラを見るだけで観客全員を見ることができる。俳優がカメラを見るのは映画でもあると思うんですけど、それはたとえば向かい合って会話している相手を見ている設定だったりする。映像演劇ではそれとは全然違う効果がある。
三宅:お客さんが俳優と目が合ったと思ったとき、他のお客さんもみんな目が合ってるんですね。
岡田:でも他のお客さんがどうかはその人にはわからない。それも含めてすごい面白い。
足立:今日見てくれた友達から「足立くんと目合ったよ」ってメールが来てました(笑)。
岡田:全員合ってますからね(笑)。
三宅:そんなこと言ったら世界中の人がディカプリオと目合ってますよ(笑)。
山田:でも映画だと自分と目が合ってるとは思わないんですよね。
どうやって終わるのか
三宅:見ていて、この作品はどうやって終わるんだろうというのが気になってたんです。普通の演劇だと俳優がハケるか、あるいは一回暗転して、明るくなると役じゃなくなった俳優がそこにいてカーテンコールするか、そういう感じで終わるじゃないですか。僕としてはなんとなく下手にハケて終わるのかなと思ってたんです。最初、俳優は下手から出てきたし、上手には空間がないのでそっちにはいかないだろうという先入観もあった。それが最後、俳優が上手の方に行って見えなくなって、戻ってくるかなと思っていたらそのまま終わってしまった。終わったあとで役じゃなくなった俳優が出てくるわけでもない。だから、ちょっと大げさな言い方をすると、僕のなかでは俳優がそのままそこに立ってる、終わっていないかのような感じがあったんです。
遠藤:(王子小劇場は下手しかハケられる場所がなかったが、)上演する劇場によってハケられる方向も変わるのでそれによって見え方も変わってくるんじゃないかと思います。
岡田:真ん中で終わるということも一瞬考えたんですけど、ちょっとそれは気持ち悪すぎるなと(笑)
三宅:いずれにせよ、入ってきたときと同じ状態に戻るんですけど、入ってきたときと全く違う何もない空間で終わる、それはやっぱり見え方が変わってるんだろうなという感じもします。
俳優という存在
岡田:そういうのも全部、俳優の仕事ゆえなんですよね。映ってないということは映ってないということのはずなのに、それがただの映ってないじゃなくなってくる。
三宅:俳優ってなんなんだろうなということはよく考えるんです。映画で実話ものをやると、やっぱりドキュメンタリーの方がすごいよねと思うことがある。いわゆるリアルなものを俳優と一緒に作ろうとしても、どうやっても実際に起きていることには勝てないと思うことも多い。でもたまに、題材によって、絶対ドキュメンタリーで映らないものがあるなというときに、「これは俳優が必要だわ」と思うときがあるんです。
岡田さんが作・演出を担当した『未練の幽霊と怪物』では、いま生きている人間が全員死んだ、10万年先とかにも存在しているものとして俳優が存在していた。それはドキュメンタリーで撮れない、生で見れないものだなと思って、そのためにメディアとしての俳優がいるんだなということを思ったんです。
岡田:映画の観客はスクリーンを見ているわけではなく、そこに映ってる映像を見ているわけですよね。俳優もそれと同じ。本当にスクリーンみたいなものなんです。そういうメディアは他にないと思います。
山田:『ニュー・イリュージョン』では結局、最後までカメラは動かさないですし、照明や音響の仕事はありますけど、そこで何かを起こしているのは俳優以外の何者でもないんですよね。全部が演技によってできているというのはとても演劇っぽいですよね。僕らは映画が使っているテクニックや手法のほとんどを使わずに映像演劇をつくっていて、編集すらしていない。
岡田:舞台というのはずっとここにあって、時空間が飛んだりはしない。それが演劇だということなんですよね。
映像演劇と映画
三宅:ちなみに、今回のクリエイションで映画のタイトルが挙がったりはしましたか?
岡田:クリエイションの最初の頃にカール・テオドア・ドライヤーの『ゲアトルーズ』*1の話はしました。演劇というのはお客さんの前でやってるものなので、たとえば舞台上でふたりで対話をしているときに、そのふたりの関係だけに閉じてしまうとダメなんですよね。それをどうしたらいいんだという問題があって、『ゲアトルーズ』はそのヒントになるような気がしたんです。『ゲアトルーズ』の演技とか動線は出演している俳優の生理からするとすごい変なはずなんです。目線も全然合わないし。この人たちはこれをどうやってやってるんだろうというのがすごく謎で。
三宅:なるほど。僕は『ニュー・イリュージョン』を見ていて思い出した映画が2本あるんです。1本は、これは僕が何かしゃべるときによく例に挙げる映画なんですけど、トニー・スコットの『デジャヴ』*2。過去の映像が見える装置みたいなのがあって、それを使う場面では過去の映像と現在の映像が並んで見えるんですよね。それはまさにだなと思って。
もう1本はロベール・ブレッソンの『やさしい女』*3。冒頭で女の人が亡くなって、そのあとずっとベッドの上に死体があるんですけど、同じ部屋のなかで生きてるときの場面も描かれるんです。女が生きているときと死んだあと、過去と現在がカットバックで描かれるので、最初のうちは「生きてる」「死んでる」って思いながら見るんですけど、見ているうちに「そもそも死んでるじゃん!」「そもそも映画じゃん!」って気づく(笑)。でもそのなかから生きていることの官能性みたいなものがびっくりするほど伝わってくることがあるんですよね。そこで目指されているものは『ニュー・イリュージョン』とは全然関係ないかもしれないんですけど、何か舞台上に等身大の人物を見るということに『やさしい女』に近いものを感じました。
*1 1964年公開のデンマーク映画。ダイアローグのシーンは男女2人がほとんど目を合わせることなく進行し、その関係性を暗示する。
*2 2006年公開、アメリカのSF・サスペンス映画。FBI捜査官が4日と6時間前までを自由に見ることができる監視装置を使って事件の真相を追っていく。
*3 1969年公開のフランス映画。ロベール・ブレッソン初のカラー映画。
(構成・文:山崎健太)