見出し画像

映画「家族のレシピ」評

2019年、日本とシンガポールの国交50周年(2016年)を記念して作られた日・シンガポール・仏の合作映画。「アジアの巨匠」エリック・クー監督作品で、良いカメラワークで至る所に映される「食」の描写に終始食欲をそそられる映画である。…が、その割には、内容がいまいち薄い。歴史問題も扱っている近年にない映画であるので、せっかくなので感想を書いてみよう。

高崎のラーメン店の一人息子である真人(斉藤工)は、急死した父の遺品の中に、中国語で書かれた母の日記を発見する。真人の両親はシンガポールで出会い結婚したが、母・メイリアン(ジネット・アウ)は真人が10歳の時に病死していたのだ。真人はシンガポール在住のブロガー・美樹(松田聖子)の助けを借りて叔父にあたるウィー(マーク・リー)の食堂を訊ね、そこで、国民食・バクテー(肉骨茶)の作り方を教わる。
話の後半で真人は「いいか、俺にできるのはここまでだ」とウィーに念をおされ、祖母であるマダム・リー(ビートリス・チャン)の家を訪ねるが、孫であることを告げたとたん黙って追い返されてしまう。実は、真人の曾祖父がアジア・太平洋戦争中に日本兵に殺されていたのだ。祖母は両親の結婚に猛反対し、母娘は真人が生まれたあとも絶縁状態にあった。頑なに心を閉ざすリーを前に、真人はバラバラになった家族を一つにするため、日記に遺されたレシピをもとに、日本のラーメンとバクテーを合体するアイデアを思いつく。

…というのがだいたいのプロットだ。
だが、本作の最大の問題は、主人公・斎藤工の精神的成長が全く描かれてないことだ。真人は自分のルーツを辿ってシンガポールまで行き、戦争記念館まで行く。それは若者として至極真面目な行動だろう。丁度シンガポールでは、政府が戦争博物館に日本占領下の呼称である「昭南」をつけようとして、市民の非難が起こっていたのだ(これは実話)。真人は「a regime of fear(恐怖の体制)」という戦争展示で、以下のような証言の声を聞く。

――その時私はニューブリッジ通りにいました。私の目の前には、弱弱しく死にそうな中華系の母親が赤ん坊をつれて座っていた。そこに偶然日本兵が通りかかり、赤ん坊をとりあげた。私は近くの救護所に連れて行くのかと思い安心していました。そのとき、日本兵は赤ちゃんを放り投げ、刀の上に落としたのです。悪い冗談かと思った。すべて幻だと思いたかった。

だが、この後味の悪い事実を知った後、美樹のバーで酒に溺れた真人は、マダム・リーの家に押しかけ感情に任せてこう言うのである。

自分の娘に何でそんなひどいことできるの?」(※絶縁のこと)
――何言ってるの? 近所迷惑だよ、帰りな。
「待って。あなたのおかげで、俺にはこれしか残ってないの。これ何だかわかる? 母さんの日記。これには、悲しみが詰まってんの。ねえ? 母さん苦しめて楽しかった? 父さんが日本人だから? ねえ、父さんがいけないの? 父さんがいけないの? 何人だって関係ないでしょ? ねえ?何人だって関係ないでしょ? じゃあ俺は何? なんでいるの? 存在してないの?」
――私に説教する気つもりか、何が分かる?
あなたのせいで、母さんは、悲しみながら死んでったの。俺なんにもなくなったの。なんにもないんだよ!(格子を)二人は愛し合ってたの!自分の目で確かめてよ。」
――帰りなさい

両親を守りたい真人の気持ちは分かる。だが、彼が祖母に訴えるのは「自分はアンタに苦しめられた」という自己主張だけだ。そこではシンガポールの人々が日本に苦しめられたことは真人の頭から都合よく放り出されている。そこからでた真人の言葉は、どんな言葉であれ戦争責任国の思い上がりにすぎない。
「過去の過ちを反省して謝罪するべきだ」と言いたいのではない。「アンタのせいですべて失った俺はどうなる」という真人の感情は、そのまんま、家族を殺された祖母の不条理にも同様に当てはめられる理屈であることは、普通に考えれば分かることである。

どうも真人は酒に溺れることで極限体験の衝撃を頭の隅に押しやる否認機制をはたらかせてしまったようだ(この時の「真人さん、もうやめて」という松田聖子の演技がいかにも松田聖子でまたシラけてしまう)

この後の流れは、真人の置いていったバクテーをマダムが食べ、「私の家の味だ」と心を開いていく…というお決まりのパターンだ。しかし、このプロセスのなかで真人は全く何も変わっていない。これは歴史認識を描いた外交映画としてはまずい。自分の立場を棚に上げて、相手に対し一方的に「心を開く」ことを強いていると読み取れかねないからだ。戦争責任の問題抜きにしても、人の価値観や感情はそこまで簡単には変わらない。このような主題を描くのであれば、戦争体験と向き合う真人の機微と、真人と出会い家族を心に取り戻していくマダム・リーの心境の変化の双方を丁寧に描くべきだ。

仮に、ネトウヨや歴史修正主義者がこのやりとりをみたらどう思うだろうか。十中八九、どこかの首相の戦後談話ばりに「若者にこれ以上謝罪させてはいけない」「アジアの国々はマダムのように心を開くべきだ」ととんだ勘違いをするだろう。こういうミスリーディングを誘いかねない表現を行う時点で、その無頓着さがどうも目に付く。

監督はDirector's noteで「本作は、受け入れること、赦すこと、和解することについて描いています」と述べている。それにしてはマダムが真人を「受け入れ、赦す」心境の変化が雑に書かれすぎてやいないか。戦争のトラウマから60年も絶縁していた相手に、バクテー食べたくらいで愛想よく笑顔振りまけるか?(私だったら無理)。真人が加害の事実を「受け入れる」という描写も含むのであれば、なおさらだ。

「食文化のハイブリッドは世界を救う」というメッセージを伝えたかったのは分かる。しかし、五族協和や大東亜共栄圏が侵略の大義にされた歴史からもわかるように、「文化の混淆」というイデオロギーはかえって民族を破滅に招くこともありうる。この話題を1時間半に詰め込むのは、無謀だったのではないだろうか。

そしてラーメン・テー。これは海外展開もしている「けいすけ」で有名な竹田敬助が監修しているのだが、エンディングで真人が開いた店には昭和のホーロー看板が所狭しと並んでいる(参考画像を参照してほしい)。昭和ノスタルジー丸出しのキッチュを海外に輸出していこうという魂胆が見え見えである。その背後にはおそらく、2013年頃から日本政府、具体的には第二次安倍政権が広告代理店と組んで官民一体で推進しているクールジャパン政策がある。要するにまるで「ラーメン博物館」のような、昭和テイストだが高価格化(ロブスターやフォアグラとコラボ!)した妙に時代錯誤なラーメンは、政治家と大企業のお偉方達が「日本ってスゲェだろ?」って思うためだけにひたすら登場させられるのだ(※1)。映画の性質上当然政府の支援は入っているだろうから、脚本やカットに対してもこのような政府の意向も反映されているのかもしれない。

(※1)「海外で見た酷すぎるクールジャパンの実態~マレーシア編~」(Newsweek 古谷経衡)https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/06/post-10343.php

正直、こんな映画を被侵略国に見せて恥ずかしくないのだろうか。戦争の爪痕、歴史の和解というシリアスな問題を、ラーメンとバクテーの合体という誰でも思いつきそうな話に変えて「食文化は世界を救う」ってな安直なメッセージを流すなら、ハナから歴史問題など触れないほうが良かったはずだ。

そして、松田聖子である。監督は「聖子を使えばアジアで売れる」とでも思ったのか執拗に彼女をクローズアップするが、若作りしたバツイチのフードブロガーで、地元の高級バーのママという役柄がことごとく彼女の演技にミスマッチで、物語全体からみてもお世辞にもキーパーソンとは言えない。設定も配役も演技も完全にチグハグで浮いているのである。この人を頼りにシンガポールまで飛ぼうと思った真人にわたしゃ感心するね。ここまでわざとらしかったら逆に警戒するわ。
バクテーを食べながら顔を接近させて、「真人さんって、ラーメンとバクテーのハイブリッドみたいね」このいかにも棒読みな中身のなさが聖子らしいといえばらしいのだけども。はっきり言うが、本作は斎藤工か松田聖子のファンでなければ至極退屈な映画である。

それにしても…最後のシーンで意味ありげにまた聖子を登場させた意味は何だったのだろうか? まったく分からない。監督はアイドル映画でも撮っているのだろうか?(これも「日本を代表するアイドルを文化の架橋として使いたい」という政府なり代理店のアラ還オッサンの声が反映された結果だと邪推できるあたりが悲しい)。監督は松田聖子を 「アジアを結びつける妖精」的な位置付けでもしているのだろうか? それならそれで彼女の還暦記念作品かなんかにしてたら、まだ作品として楽しめる余地があったのだけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?