[読書メモ]動きすぎてはいけない 第1章
生成変化の原理
序文
1-1 物化と生成変化-万物斉同に抗する区別
中島隆博の荘子解釈を引き、汎・生成変化論の解釈を後押しする
中島による『胡蝶の夢』解釈
ここで中島は、全てを一緒くたに混交する超越的な立場に立つことは帝国化の端緒であると警戒している
逆に、当座の世界へのスイッチは内在性の徹底である
ある内在性から別の内在性へのスイッチの際に生じる瞬時の呆けこそ、*存在論的ファシズム*への抵抗
1-2 生成変化論のレトリック (1) 区別ある匿名性
生成変化のパラドクス
生成変化とは、以下の二つの性質を併せ持つ
1. 模倣でも同一化でもない
2. なろうとする何かは生成変化において別の何かxになる (x: 知覚し得ぬもの)
このことから以下のパラドクスが生じる
特定の事物Nへの生成変化はその名辞Nを
- 消去、匿名化
- 反復し維持する
つまりNになる=Nでなくなるというパラドクスを抱える
区別ある匿名性
ではなぜ生成変化の対象として具体的な名辞を残すのか
それは生成変化プロセスそれぞれの複数性を肯定するため
諸々の生成変化は、未規定な知覚し得ぬものへの生成変化であったが、このことは単一のXへの収斂を意味しない
x, y, zといったふうに、個別で匿名化される
生成変化論では「女性になる」「犬になる」といった具体性を壊しすぎないように壊そうとする
Nへの生成変化とは、Nの内容を繰り返し粉砕し,繰り返し仮に再規定すること。Nに関する解釈歴からズレること。歴史性からの超越でも道を極めるのでもなく、歴史に対する批評である
ここでNとはそれを分有n’の集まり
Nへの生成変化はそのNを匿名化しながらn’’と呼べる諸関係を構成すること
1-3 生成変化論のレトリック(2)微粒子の関係
生成変化とは、個体に対応する微粒子群(物理でなく形而上学的な)を成立させる諸関係が、今なろうとするものの微粒子群を成立させる諸関係に近くなるよう変化すること
以上から二つのテーゼ
1 生成変化とは微粒子群としての自分の、その微粒子群における関係の変化
2 自他の微粒子群の関係は互いにリゾーム状の矢印によって近くなる
1-4 出来事と身体をパフォームする
ドゥルーズが、『タクシードライバー』のデニーロが主人公の奇矯振りをカニのように歩くことで再現しようとしたことに関心を受けたエピソードを引く
モノであるデニーロの体は目立って変わっていないが非物体的なコトとしての出来事が変化している
しかし生成変化論はコトをモノに対して二次的とは考えない
ハチとランのエピソード、マラブーの可塑的な変形に触れ、コト→モノへの影響、その逆も同等に扱うことが重要だと説く
1-5 心身平行論と薬毒分析
(あまり読めてない)
精神の地平での無意識と身体がなしうることのポテンシャルは並行
身振りや骨肉の変造は、並行的になされる異なった無意識の生産に相当
無意識は作られるべきであって,見出されるべきモノでは無い
1-6 スピノザ主義から関係の外在性へ
明らかに超重要章
スピノザは事物を分子状あるいは微粒子群と捉えている
分子、微粒子とは:形而上学的に想定される現実的無限にとっての無限小の部分
ただマクロな存在者を物理的にミクロな素粒子へと還元、消去しない
なぜか:個体の多様な分析可能性の確保
何らかのNへの生成変化において、名辞Nに対応するのは、分身N’の群れ。分身N’の群れとは唯一に真では無い仮の=アドホックなNの諸規定。それらを関係束と呼ぶ。
組み変わりの形而上学
あるN’から関係束の組み変わりによって、別の分身N’へ移行する。ある分身N’=関係束は、個体的である。関係束としての個体=モノ。それを構成する諸関係はコト。事物は複数のコトを束ねているモノ
生成変化とは外延的な微粒子のそれらの関係束の組み変わりであり、これに応じた強度=内包的(なしうること,その度合い)な情動の変化
事物は無限に多くの微粒子によって構成されるにしても、その力能=強度=内包性を、微粒子一つ一つの項へと還元することはできない
むしろ微粒子たちは「単に外在的な関係」を持っており、事物の力能は、それに対応している。この意味において、微粒子=関係の項は<区別ある匿名者>である
即ち〈関係の外在性テーゼ〉とは微粒子をつなぎ合わせる関係は、その項である微粒子がなんたるかに依存せず、外在的に設定されること