[読書メモ]動きすぎてはいけない 序章
第0章
序 切断論
0-1 「アンチ・オイディプス」と「千のプラトー」
ドゥルーズ・ガタリの日本における受容
リゾーム(芝のように特権的な中心なしで多方向に線が絡まっていること)は敗戦後の「日本株式会社」の硬直化からの解放を表すキーワードとして言祝がれてきた
これらの概念は浅田彰の「構造と力」、「逃走論」を経由して日本で受容されていく
浅田による加速する資本主義に関する議論(千葉解釈)は以下
資本主義は伝統的な意味のヒエラルキーを解体し、全てを交換価値へと<非意味化>する運動
非意味的な量のレベルで物事の質的な壁をなくし、全てを接続する。 欲望の多方向への差異化に沿って「逃走」する人=スキゾキッズ
一つの排他的なイデオロギーに執着する古い近代はパラノである
そういう妄執していた道徳から自分をずらし、多数の逃走線をサーフする=リゾームを作ること
これこそが規範的でない別の仕方の人生へと生成変化すること、生きること
0-2 非意味的切断の論理
リゾームを作ること=二度の切断
ツリーからリゾームへ。これはアドホックな他者との関係論
接続したり/しなかったりのすすめ
物事を有意味的に切断して理解することだけでなく、非意味的な切断もおこって良いということ
ロゴスの専横を避け、バランスをとるということ
リゾームの適当な一点で切れたり止まったりしてもいいということ。
つまりリゾームをつくることは以下の2回の切断を有する。
切断A:権力の強いる柵からの切断(ツリーからリゾームへの切断)
切断B:リゾームを無関心、意味を持ちすぎない加減で切断し、有限性を持たせる(リゾームからリゾームへの切断)
0-3 接続的/切断的ドゥルーズ
重要用語(別ページに切り出す)
接続と切断の原理
生成変化という自他の関係の変化の原理 ではここでいう関係とは何か→ヒュームの関係の外在性(後に譲る)
非意味的切断
浅田の言うような「深く関わりつつ容赦なく切って捨てる、真に知と呼ぶに値すること」ではなく、中毒や愚かさと言った事物の有限性によって偶発的に起こるもの
ポストポストモダン
モダンでハードな主体性でもポストモダンなソフトな管理からも逃れる中間地帯としての状態 非意味的切断から出発し、非意味的接続は部分的にしか可能ではないと言う前提で試行錯誤する。 ここでは情報のオーバーフローによる多様な有限性による非意味的切断が前景化されている。
ドゥルーズの二つの相貌
接続的ドゥルーズ
ベルクソン、スピノザ主義 あらゆる事物を存在全体の連続性における差異化のプロセスに内在させる。
切断的ドゥルーズ
ヒューム主義 事物に概念的な同一性が無いことを前提 感覚的なデータが飛来してくる中でそれらを連合することで主体が形成される
0-4 日常に潜在する差異の狂騒
カント的世界観での変化ないし差異の概念
A=Aという同一性を、一つの正しい方向の、良識的な時間にのった常識的な共通感覚によって再認している
つまり差異の概念は良識と常識の支えられた同一性に従属している
ドゥルーズ哲学における差異
差異を同一性の再現前化に従属させない
マジョリティの健全な経験についても、ラディカルな不安定化を考えることができる-A=Aの改変を想像・経験できる
どういうことか
「この1杯のロックのバーボン」が次の瞬間に「キラキラした色彩の散らばり」になることは日常的に経験されるし、「疲れたカモメ」になるといったことも夢の中では経験可能
*差異の狂騒* は日常に潜在していて、それをさまざまな強度で経験している
LSD・メスカリンの使用はそうした超越論的経験を偽造するのではなく、強度を増幅させる
健康化された分裂症
ドゥルーズは際限なく脱組織化することを勧めたわけではない
健康化された分裂症という準安定状態に住まうには、身体がどこかに持って行かれていく感じをサーフしながら生き延びなければならない
快活なスキゾキッズとして跳梁するには、そうした分裂症傾向をやりくりしなければならない
生成変化とは、接続過剰からの解放、接続の節約のすすめなのである
0-5 生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない
多くのことに関係すると、身動きが取れなくなる
創造的になるには、「すぎない」ほどに動くのでなければならない
そのためには、自分の有限性ゆえに、さまざまに偶々なタイミングで他者から部分的に切り離されてしまうのに身を任せるとよい
ドゥルーズ哲学の世界観
代理-表象されない差異それ自体の哲学
ドゥルーズ哲学における実在とは、潜在的な差異
ドゥルーズ哲学の風景
渾然一体のメチャクチャではなく、切断・区別・分離された複数のメチャクチャによるコラージュ