僕の恋人
僕が彼女を知ったのは、大人が集うような店だった。
本来、まだ未成年である僕はそんな場所に入ってはいけなかったが、僕は同じ年頃の少年たちよりも大人びた外見を持っていたせいか、バーテンダーに気づかれることはなかった。ほんの少し優越感を持ちたくて、ばれない程度に時折この店に来るようになった。もちろん、アルコール度数が低いロングカクテルくらいしか飲めなかったのだが。
その日、店内はまだ早い時間だったせいか空いていた。そこに彼女がいた。彼女は店の奥の、人目につかないような席に座り、煙草を吸おうとしていた。しかしライターが見つからないのかバッグを探っていた。そのほんの少し気分を害したような横顔は驚くほど整っていたので僕は最初、彼女を女優かモデルだと思った。彼女はそのうち探すのを諦め、一瞬だけ途方に暮れたようだったけれど辺りを見回し、その時初めて僕の存在を目にしたようだった。そして悠然と僕の方に歩いて来たので一瞬たじろいだ。
「火を貸してもらえる?」
火のついていない煙草を片手に持ったまま、僕の手元のライターを見て彼女は言った。ほんの少し首を傾げて赤い唇が三日月のように微笑みを作っていた。
「どうぞ」
僕は動揺を隠してライターを彼女の方に押しやった。
「つけてくれる?」
しまった。こういう場面に気が利かないのは、僕がまだ子供だという証明だ。内心慌てたが、失礼、と取り繕ってライターに火をつけた。彼女は仄かに微笑み、その整った顔を寄せ、ライターを持つ僕の手に軽く触れた。琥珀色の火の中に浮かび上がるその顔は、マスカラをたっぷり塗った睫毛が長く影を落とし、肌理細やかな肌を一層艶やかに映し出した。僕は多分見とれていたと思う。そして彼女は人差し指と中指で煙草を挟み、僕の火を受け取った。
「ありがとう」
彼女は笑顔で僕に礼を言い、また少し小首を傾げて席に戻った。その仕草が癖なのだろう。彼女は甘い香りがした。香水のことなんて酒の種類よりも知らない。けれど、その甘い香りはそのまま彼女と同化して僕の記憶の中にしまわれた。当然だが僕よりも確実に年上で素晴らしくいい女だった。
彼女は煙草を吸い終えると店を出て、迎えに来た恋人らしき男の車に乗り込んだ。見つからないよう店を出て、僕は車種を憶え、自転車で追いかけたが見失った。車はそのまま去って行った。
その日から、僕は毎晩この店に通うようになった。
もちろんアリバイ作りをしたこともあるし、ある日はこっそり寝た振りをしてベッドから抜け出して来ることもあった。家にいても彼女のことばかり考えて何も手につかないのだ。部屋にいる時は、あの日テーブルに置かれたランプで輝いていた唇とか、小首を傾げる仕草とか、僕に顔を寄せて一瞬、目を閉じた彼女の表情とかを思い出し、更にその先を想像してはマスターベーションをした。最後は必ず彼女が煙を吐いた時の目が少し虚ろな表情だ。しかし終わった後、そこから先に進まないことへの虚しさがあった。彼女とはあの時以来会っていない。会いたい。だからこそ毎日バーに通ってしまうのだ。
そして、とうとう彼女が来た。
僕にとっては既に見慣れた懐かしい顔だった。思わず走って行って抱きつきたい衝動に駆られたが、そんなことをしたら僕は犯罪者になってしまう。まずは落ち着いて、この間みたいに彼女が煙草を出したら火を探すためにバッグを覗き込むよりも先にさり気なく聞くんだ。
今日は火を持っているの? そしてそのまま席を移動するんだ。僕は何度も想像の中で交わしていた会話を反芻した。
彼女は注文した飲み物を待つ間、テーブルに両方の肘をつき、顎の下で軽く組んで背筋を伸ばして座っていた。そして時折、僕の方をちらちらと見ているのもわかっていた。彼女の飲み物が運ばれてきた。フルート型の細いグラスを持つ彼女の指先もグラスに負けないほど華奢で、爪はきれいに整えられ、その細い指に質の良さそうなジュエリーが飾られていた。僕もちらちらと視線をやった。すると彼女はついに僕と目が合った。そしてあの日のように艶然と微笑み、グラスをテーブルに置くと僕の席へと歩いて来た。願ってもないことだ。僕は彼女を目の端に感じながら、気取って煙草に火をつけた。
しかし、彼女は僕の横をすり抜けた。
一瞬、頭が混乱した。どうしてだ?
動揺を隠しながら彼女の視線を辿ると、彼女は僕の席の真後ろのドアから入ってきた男を見ていた。彼女はそいつを見つけて立ち上がったのだ。僕に向かって来た訳じゃなかった。男はあの日車に乗っていたヤツだ。彼女をさらっていったヤツだ。そして、彼女が女優のような美しさだとすれば男は俳優そのものだった。そんな完璧な容姿の男が彼女の腰を抱き、またしても風のように奪っていった……。
僕は男への嫉妬と、そんな大人の男への敵わなさに手が震え出した。おまけに彼女が僕に向かって歩いて来たと勘違いしたと判った時の羞恥心も重なり、泣きたくなった。既に余裕の欠片も残っていない。彼女が男に何やら囁きながらドアを閉めた瞬間、強い外気に煽られ、ずっと僕の鼻をくすぐっていた甘い香りも一緒に連れ去ってしまった。僕はしばらく動けなかったが、何とか手の震えが収まると、すぐに店を出た。
情けないことに僕は泣いていた。家にも帰りたくなくて、とぼとぼと歩いて橋の上から流れる川を見た。街灯が川面にゆらゆらと揺れて映っている。僕の視界みたいだ。しばらくその灯を見つめ、ポケットから煙草を出して口に咥え、火をつけようとしてライターを出した。そのライターを見ていると情緒を煽る景色も手伝い、限りなく寂しい想いに捉われた。彼女の顔が浮かぶ。このライターに手をかけ、触れた手の滑らかさも、一瞬閉じた目蓋も、長い睫毛も……。僕はライターを一瞬だけ強く手の中に強く握り締め、思い切り川に放った。
《 Fin 》
初出 2004年10月4日
解説
この物語もかなり最初期のものです。小学生の頃からずっと聴き続けている憧れのシンガー、大澤誉志幸さんのアルバムタイトルをイメージして書きました。本当はそんなふうに彼の歌詞やタイトル、世界観などを私なりに咀嚼し、小説にできればと思って専用のブログを作成して書き始めましたが中途半端に終わってしまいました。そのブログも今は閉鎖しています。けれどそのうちまたインスピレーションが浮かんで、とびきりのものを書けたらと思います。このジャンルはこれから先も期限を決めず、続けて行きたいと思います。(何より大澤さんにご迷惑がかからないように!)
そして、この掌編のために聴いていた大澤さんの曲と言うのは、とても官能的なバラードでファンの皆様の間でも人気のある楽曲です。そんな名曲なのですが、何故かまだ恋もままならないような少年をフィーチャーした物語が思い浮かびました。