ショコラの甘い風
「楠田、一杯付き合え」
12月。
私、楠田美緒は会社の仲間たちとのごく軽い飲み会を終え、そのまま帰路に向かおうとした所で、先ほど別れたばかりの先輩上司にこのように声をかけられた。
先輩とは普段から割とストレートに物を言い合う仲ではあるが、突然背後からこんな乱暴な口調で声をかけられたので驚いた。
「え? 先輩、車に乗って来てるじゃないですか」
「あれだよ」
先輩が指をさす方向を見ると、コンビニエンスストアだった。
「最初からそう言って下さいよ。突然『一杯付き合え』だなんてパワハラですよ」
「まあ、そう言うなって。付き合ってくれよ」
「最初からその言葉で言って下さいよ」
もちろん、パワハラなんて強い言葉を使ったが、本気ではない。
会社での先輩は強面の上、いつもスーツのズボンのポケットに手を入れて歩いていて、一見付き合いにくそうな外見をしているが、そんな見かけとは裏腹に社内では仕事ができて人望がある。まあ、私も先輩を慕う一人だが、先のように露骨に口が悪いので、このご時世だし、はっきり物を言わせてもらっている。
「いらっしゃいませ。エージーマートにようこそ」
明るい声の店員さんが暖かな店内に迎え入れてくれた。
「何飲む?」
「ホットコーヒーを。ブラックで」
「え、何にも入れないの? すげーな」
何が凄いんだ? そう思って先輩が何を注文したのか見てみると、ふわふわの泡が乗ったアーモンド・キャラメル・ショコラだった。
私たちはイートインのカフェスペースに移動した。
「急に誘うなんて、何かあったんですか?」
「え? いや別に。ここのコーヒー美味いから、飲んだ後には最高だぞ」
それなら、一杯付き合えなんて誤解を招く言葉は使わないで欲しい。第一、先輩はコーヒーとはほど遠い物を注文しているじゃないか。しかも先輩は下戸じゃないか。
「あ、楠田知ってるか?」
「なんですか?」
「このコンビニ、カフェスペース増やすんだってさ」
「そうなんですか? おばさんとかおじさんとか若い人がたむろしそうですね」
「ほぼ全員じゃねえか。美味いコーヒーを座っていつでも飲めるって安心するもんだぜ」
「へえ、どういう風の吹き回しなんでしょうね」
私は熱いコーヒーを口にしながら言った。
「……楠田、何でそんなに口悪いの?」
「普通の疑問ですよ」
「店長が聴いたらいい顔しないぜ」
考えてみると確かに。私も先輩に負けず劣らず、まあまあ口が悪い方だった。反省。先輩が相手だったという事でここはおあいこで……。
「あ、店長さんと知り合いなんでしたっけ?」
「うん。高校の時の同級生。奴は大学も出て、優秀だったからいいとこに就職するかと思ったら就職全部蹴って、まさかのコンビニ店員になった。今は店長だけど当時はアルバイトだぜ。びっくりしたよ」
「そうなんですか」
店長さんにとっては、このコンビニがどんな就職先よりも魅力を感じる職場に見えたのだろうか。私は店長さんの顔を思い浮かべた。制服がよく似合う爽やかな人だ。ただいつもどこか陰があるような風貌で、先輩と同い年と考えると若くても落ち着いて見える。
「あいつが言い出したんだ。カフェスペースを広くするって。それこそ、本当にどういう風の吹き回しだって、俺、聞いたんだよ」
「本人に直接言ってるじゃないですか」
「まあな。何かさ、びっくりする理由だったんだよ」
「なんですか」
「……誰にも言うなよ」
「言いませんよ、なんですか?」
私と先輩は内緒話をするために身を潜めて体を近付けた。
「好きな人を待つ場所を作るためなんだってさ」
ん?
私は何か聞き間違いをしたのだろうか。
「先輩、やっぱり飲めないくせに飲みました?」
「くせにってなんだよ。車なんだから飲む訳ないだろ。夜中、美しい女性が来てコーヒーを飲みたかったらしいがコーヒーマシーンを扱えなくて、奴が淹れてあげたんだって。それからそのお嬢さんはあいつが来る時だけ店に来るようになったんだってさ。客にも聞いてみたら、この世の人間とは思えないような美人なんだって」
「きっとそのお客さんも酔ってたんじゃ」
「あのなあ、客はともかく、店長ともあろう人間がそんな幻想だけで経営方針変えさせるかよ。何かあったんだろ」
「その人を待つ場所……? 本当なんでしょうかね」
「会ってみたいよな」
「会ってみたいですね!」
「おーい、不倫カップルと間違われるぞー。こそこそするなよー」
当の本人である店長さんがいた。いや、ちょっと待って。
「不倫じゃないです!」
私は慌てて椅子から立ち上がり、否定した。隣で先輩が私の声に驚いたのか、体がビクッと動いたのが目に入った。
「知ってます。そいつ友達なもので、つい軽口叩いちゃいました。すいません」
店長は、微笑んで申し訳なさそうに私に言った。爽やかだ。話しかけるのに脅迫みたいな言葉遣いをする人とは大違いだ。
「俺だって、こう見えて独身だからな!」
「判ってるって。よく来てくれたな。明後日からこの店、この間お前に話した改装工事に入るからいいタイミングだったよ」
「明後日?」
「うん。いいアイディアをくれた人もいてさ」
いいアイディアをくれた人? その言葉に私も先輩も椅子を回転させる勢いで店長を見た。
「え、なに?」
「お前、もしかして噂、本当なのか?」
「噂?」
「世にも美しい女のためにカフェスペースを広くするって」
「世にも……あ……」
「なんだ? その間はぁ!」
「僕の恋人のこと……かな」
私と先輩は瞬時に目を合わせた。
世にも美しい女性が店長さんの恋人? いや、自分の恋人をそんなふうに言うか? これはあばたもえくぼ、という奴で実は噂の『世にも美しい』と言うのは尾ひれがついているだけでは、と思った瞬間、店の奥から私たちの声を聞きつけて店員ではない人が出て来た。その人を見て、私も先輩も口を大きく開けたまま、本当に石のように動けなくなった。
その人は、この世にある天界の図録などに載っているすべての女神の絵画に当てはまるような、静かな、しかし圧倒的な美を持っていた。
「お前、仕事中に何やってんだよ!」
先輩が店長さんに向かって指をさして大きな声を出したので、私は思わず先輩の手の甲を引っぱたいた。
「あ、彼女、今日はたまたま店に来てくれてたんだよ」
店長さんは慌てて女神、もとい、恋人をかばうように言った。
「彼女がここのコーヒーを気に入ってくれてね。それが出会いだったんだけど、ここが以前、喫茶店だったって教えてくれたのがきっかけになって通ってくれて。それから喫茶店のことを社長に話したら、その店の材料がここで再利用されていたのと、社長がその喫茶店のマスターと親しかったってことも知って。社長もその喫茶店が大好きだったんだって」
店長さんは恋人と先輩と私の顔を交互に見ながら説明してくれた。
「だから広くする、と」
「まあ、広くする分、完全にセルフに移行するけどな」
「でも」
突然、恋人さんが割って入った。その声すら『囀り』と言っていいほどに、か細くて美しかった。
「セルフではあっても、温かいコーヒーをきちんと座って飲むって安心すると思うの。私、まだ喫茶店があると思ってここに来たのだけれど、コンビニエンスストアに変わっていて最初はショックだった。でも雰囲気がよく似ていた。そして新しいマシーンが使えない機械音痴な私に代わって紳士のように親切な手つきで彼がコーヒーを淹れてくれたの。とても嬉しかったわ……」
私と先輩は、思わず店長の顔を見た。
「あ、いや、その」
店長さんはみるみるうちに顔が赤く染まって行った。しかしそんな甘いエピソードを披露する恋人を咎めたりもしない。何と言うか、優しい人だ、と思った。
「完成したらすぐ来る。いい感じになってたら通うぜ」
「ありがとう。ぜひ!」
店長さんは先輩の言葉に深々とお辞儀をした。
「先輩、すごい上から目線ですね」
私は先輩の腕を小突いた。
「客が通うって言ってるんだからいいだろ?」
「荒っぽい態度でお店に迷惑かけないようにして下さいよ」
「じゃ、楠田も一緒に来いよ。連れて来るぞ」
「えー」
「何が、えー、だ。奢ってやるから」
「あ、じゃあ、はい」
その場にいる全員が笑う。
私も一緒に笑いながらブラックコーヒーの最後のひとくちを飲み終える。先輩もほぼ同時にアーモンド・キャラメル・ショコラを飲み干した。
「もう一杯買って車で飲むか」
「そうですね」
私はもう一杯同じブラックコーヒーを先輩に買ってもらい、先輩はマロンクリーム・ショコラを買った。ショコラ、好きなんだ、と思った。
「ずっと仲良くやれよ」
そう言って、先輩は店長さんの肩を軽く叩いた。
「お前もな」
「何言ってるんだよ、俺たちはただの上司と部下だよ」
「えー? そうなんですかー? 残念」
私はわざと大袈裟に言ってみた。判りやすく先輩が慌てていて笑った。それから先輩は店長さんと麗しの恋人に会釈してからドアを開けた。私もコーヒーをこぼさないよう気をつけながら同じように会釈をして、先輩の後を追い、コンビニを出た。
外はすっかり気温が下がり、私はコーヒーで手を温めた。いい香りだ。
「あいつが今、幸せそうで良かった」
ぽつりと先輩が呟いた。
「幸せが溢れてこぼれそうでしたね」
「ああ」
そこは茶化さないんだ。色んな噂が飛び交っている中で、本当は店長さんが元気にしているか気がかりだったのかも知れない。私は熱いコーヒーをひとくち飲んで、ふと店長さんの恋人の言葉を思い出した。
セルフではあっても、温かいコーヒーをきちんと座って飲むって安心すると思うの。
そう言えば、コンビニに入ってすぐ、先輩も同じことを言っていた。
先輩は店長さんとは性格が全く違うけど、店長さんの恋人とどこか似ているみたいだ。強面だし乱暴だけど、根は優しくて。私自身、こうして何でも言えて、仕事も頼りにしていて、たった今、車に向かうくらい夜道も安心して一緒に歩けるような人なのだから。
そんな先輩の横顔を、そっと盗み見すると甘いマロンクリーム・ショコラを口にしながら、まるで苦いコーヒーを味わっているかのように眉間に皴を寄せた表情をしていたので、見つからないようにこっそり笑った。何だか、天使って本当は先輩みたいな姿をしているんじゃないかな。そんなふうに思いながら天を仰ぐと、既に夜空は深夜から明け方に向かう色に変化していた。
◇ ◇ ◇
解説
この物語は、こちらで書いた拙小説『お姫様の場所』(※下記リンク)から視点を変えた掌編です。今回の主人公は架空のコンビニエンスストア「エージー(AZ)マート」の店長の友人と、その部下であるヒロイン、楠田美緒から見たお話です。いつにも増して軽めの掌編なので、温かい飲み物を片手にゆっくりと、ご一読下さると幸いに存じます。いつもお越しいただき、ありがとうございます。
幸坂かゆり