【小説】悩めるいとしい日々たち
※登場人物
リリー ・・・ 主人公。高校一年生。マリママとローが大好き。
マリママ ・・・ リリーの祖母。
ロー ・・・ リリーの飼い猫。グレーの毛。
マリ ・・・ リリーの母親。夫の浮気により情緒不安定。
お父さん ・・・ リリーの父親。浮気をしてマリとケンカが絶えない。
エリ ・・・ リリーの友達。
リバース ・・・ リリーの友達。
「悩めるいとしい日々たち」
十二月初旬。十六歳を迎えたばかりのリリーが大切にしているのは飼い猫のロー。全身、黒色にパウダーを落としてしまったようなグレーの毛を持つ少し太った可愛い子。膝の上にローを乗せて顎を撫でると目を細めて嬉しそうに喉を鳴らす。その姿にほっとしながらもリリーは最近両親の不仲に頭を悩ませていた。
喧嘩は、大声を出したり殴ったりすることだけじゃない。その場の空気をひんやりとさせると言う罪もある。そんな中に偶然ドアを開けて入って行こうものなら、たちまちこちらまで冷凍されてしまう。
大嫌い。お父さんもお母さんも。きっと両親の離婚は秒読み間近。恋愛の先に結婚があったとして、どうしてあんなに互いを軽蔑してしまう仲になってしまうのだろう。それでも世間のドラマや映画は恋愛に溢れていて、雑誌でも大いに薦めてくる。
リリーは思う。好きな人は恋愛関係の中にしか存在するとは限らない。例えばマリママ。マリママとは母方の祖母をリリーが幼い頃そう呼んでしまってからずっとそのまま呼ばせてもらっている愛称。
『マリ』はリリーの母親の名前。おばあちゃんは『マリ』の『ママ』だから『マリママ』。リリーはマリママが大好き。マリママは普段物静かな仮面を被っているけれど時々やんちゃな素顔が出現して、大好きなスポーツ番組を観ていると血が騒ぐのを抑えられないのをリリーは知っている。姿勢正しくヒールを履くけれど、べらぼうに高いヒールではなく自分が一番きれいに見えて、それから転倒しないよう、歩きやすい高さを熟知した上で靴を選んでいるのが素敵。服は神秘的で生地だけを纏っているように見える不思議な形のデザインが多いがコートを羽織ると裾から見えるその生地がヴェールのように四方に広がり、花びらのような美しさとなり、思わず息を吞む。老眼鏡はまるでジュエリー。計算されたマリママのおしゃれが大好き。
不愉快だったはずがいつの間にかマリママのおしゃれへの空想に浸っていたのでドアベルが鳴って死ぬほど驚いた。膝の上のローも一緒に飛び上がった。二度鳴らして、次に一度。マリママだ。嬉しくてすぐ階下に下りて行こうとしたが、階段の上からお母さんが泣きじゃくっているのが見えた。お母さんはマリママに背中を撫でられ、慰められていた。まるで赤ん坊のようだ。リリーは下に行くのを諦めて部屋に戻った。
ここまで喧嘩が絶えなくなったのはお父さんが浮気をしたからだ。しかも浮気相手にもらったらしい手紙を広げたままリビングに置き忘れたりするからだ。お父さんのそんな迂闊さで、愛し愛されてきたというお母さんのプライドがずたずたになった。そこからだ。家の空気が冷え出したのは。リリーも何となく食欲が減り体の調子が悪い日が増えた。けれどローとマリママ、そして学校に行けば友達がいる。だから登校時は足に羽が生えたように軽い。大げさでもなくこの気持ちがあればまだ生きていけるとさえ思う。
ドアをノックする音が聞こえた。
「リリー、ごきげんいかが?」
「マリママ!」
リリーは勢い良くドアを開け、マリママに抱きついた。
「あら、リリー、香水を変えた?」
「気づいた? 嬉しい。大好きなブランドの新作なの」
「いい香り。とてもよく似合うわ」
「マリママもつける?」
「ううん。リリーには似合うけれど私には少し涼しすぎるわね」
確かに柑橘系でフラワーベースではない分、暖かさよりはさっぱりとしたイメージだ。それを『涼しい』という言葉で彩ってくれるのが嬉しい。マリママはリリーがメイクをすることも、こうして香水をつけることも否定しない。それに大抵の香水は試供品で、そこから本当に気に入った香りを見つけた時だけおこづかいを貯めて買う。パルファムではなく少し軽めのオードトワレ。お母さんはこの香水のボトルを見た時「子供にこのブランドは早いわよ」と言った。お母さんは蓋を開けてこの香りを嗅いだこともないから、この爽やかな香りすら知らずにいる。もちろん大手のブランドではあるけれど今ではリリーとそれほど年が変わらないティーン向けの香料がきつくない手軽な価格のラインも登場しているというのに。
「ねえ、マリママ。さっきお母さん、泣いてたよね」
「知ってたの? 大変よね、マリも。リリーはどう思う? 私はマリに少し距離を置くことを薦めたの。マリはあなたのことを気にかけていたけれど、自分たちが喧嘩をする言い訳に子供を使っちゃだめよ、と言ったわ」
「ありがと。わたしは離婚したらいいと思う。お母さんはいつもいらいらしているし、お父さんなんてわたしが漫画を読んでいるだけでだらけてるって言って咎めるんだよ。余裕がなさ過ぎる」
マリママはそっとリリーの頭を抱き寄せた。
「リリーは何も悪くないのに失礼ね。あなたはとってもいい子よ」
撫でる手の滑らかさにリリーはいつも泣きたくなる。このまま包まれていたいと思う。
「ねえ、マリママ。どうして恋をしたり結婚なんてしなくちゃいけないのかな。お母さんたちを見ていたらとてもそんな気持ちになれないよ」
「そうね。確かにときめく気持ちは素敵だけれどね。だからと言って恋がなくたって素晴らしい人生には変わりがないわ。ただ、恋は時に友情に変化することもある。私とおじいちゃんの人生も後半は友情だったと思うの。恋愛の相手と言うよりも大切な友人だった。互いに好きなことをして、ふと隣を見ると互いがいて何でも一番にお話をしたいと思う。そんな仲」
「それが一番素敵」
リリーは憧憬を抱きながら少ししんみりとする。マリママとおじいちゃんは本当に仲が良かった。ずっと一緒にいるものだと過信していた。けれどおじいちゃんは数年前、脳溢血で倒れ、他界した。あまりにも急だった。あの時のマリママは取り乱しはしなかったけれど限りなく淋しそうな瞳で、彼とはさよならが近いと思っていたのよ、と言った。あの澄み切った湖のような瞳をリリーは忘れられない。お母さんも淋しがっていた。おじいちゃんとマリママの関係はリリーにとってもお母さんにとっても憧れだった。
そんな純粋な想いを共有できたお母さんだからこそ、互いの気持ちが破綻しているのに婚姻関係が続いているのがリリーにはよく理解できなかった。別に今更お父さんに戻ってきてほしい訳じゃないし、ましてや感情的になるほどお父さんのことをリリーは好きじゃない。つまり、無関心。だけど他に好きな女性がいてお母さんを苦しめているくせに家には帰ってくる。それでやっぱりどこか後ろめたさを抱えているせいか、お母さんとの普通の会話でもすぐに勘ぐって喧嘩になってしまう。それがとても嫌。そこをお父さんはわかっていない。たまにリリーの冷たい視線が刺さるのか、家が一番リラックスするなあ、なんて白々しく言うけど、一体どの口が言っているわけ?
「リリー、大丈夫?」
はっと気づくとマリママが心配そうにリリーの顔を覗きこんでいた。
「ごめんなさい。最近考えごとをしているとその中に深く沈み込んじゃうんだ。だから言い訳かも知れないけど、恋するって何だか別次元のお話みたく思える」
「……そう」
マリママは神妙にひとことだけ言ってまたリリーの髪を優しく撫でて、リリーの膝の上のローの頭も撫でてくれた。
「マリママ、また来てね。絶対だよ」
リリーはマリママの帰り際、今にも泣き出しそうな顔をして言った。マリママはそんなリリーの頬を両手で包み、すぐに来るわよ、と笑って言った。玄関で別れた時、風の冷たさに気づいた。もうカーディガンじゃ寒い。
次の日、学校で仲良しのエリとリバースの三人で一緒にクリスマスパーティーの計画を練っていた。行動的なリバースはパーティーの日、いつも集うカフェを貸切にできるように店長さんに話を通してくれていた。そこはリリーたちが学校帰りにアイスクリームを食べに行ったりおしゃべりする時に利用する店だ。店長さんともすっかり顔見知りだった。この素晴らしい提案に文句など出るはずもなく満場一致でリリーとエリとリバースはハイタッチした。あとはクラスメイトを誘うのみ。
しかし、家に戻ってパーティーの計画を母に話すと反対されてしまった。昼間だとはいえ、そんな集まりは不道徳だと言うのだ。
「どうして決めつけるの? お酒なんて飲まないしみんなとてもいい子たちだよ」
「リリーだっていい子たちって決めつけているじゃないの」
「友達だもの!」
「怒鳴らないでちょうだい。お父さんみたいよ」
母親はこめかみを抑えて、大きくため息をついた。何それ。その仕草にリリーはいらついた。
「もういい、あなたと話したくない。とにかく "健全" なパーティーの計画は進めるから」
「リリー、意地を張らないで。心配しているのよ」
「意地なんか張ってない! わたしはみんなが大好きなの! お母さんとお父さん以外はね!」
リリーは階段を駆け上がって部屋に篭った。
別にわかってもらわなくてもいいけど、あんな酷い態度ってない。自分だけが悩みを抱えているような顔をして。それに、わたしは本音を言っただけなのにお父さんみたいだなんて。だから売り言葉に買い言葉で言いたくもない言葉をお母さんに投げつけてしまったじゃない。本当はお母さんだけが悪いなんて思ってないし、嫌いじゃないのに。リリーは悲しさと悔しさでいっぱいになり、ベッドにうつ伏せになってじっとしているとリリーの柔らかな髪にローが慰めるようにじゃれる。可愛いロー。
「もしわたしがこの家を出る時は絶対ローも一緒だよ」
そうローに話しかけた。
リリーは母との溝がどんどん深くなるのを感じていた。父とはもう長らくまともに顔も合わせていない。毎日家庭の雰囲気は殺伐としていてリリーの入る余地はないように思われる。リリーは顔を上げ、親の悩みはわたしの悩みとは違う。わたしにはわたしのお仕事がある。勉強とクリスマスの計画で忙しいのだ、と気を取り直した。明日はエリとパーティー用のドレスを見に行く。それを思うとわくわくする。楽しみ。そんな気持ちとは裏腹にこの日は何だか疲れてしまって夕食を残し、入浴後すぐベッドに横になった。ローがとことこ歩いてベッドの上に乗り、リリーの体の横に潜り込んできた。
「ねえ、ロー、ドレスはマリママの若い頃を参考にしようと思うの。アルバムで見たことあるんだ。すごく素敵でモデルみたいなの。ローもマリママが好きでしょ?」
ローは既に目を閉じてうとうとしていた。
朝、リリーは食欲がなくて朝食も半分以上食べられずオレンジジュースだけを飲んだ。心配する母親の顔を見ずに玄関を開けて靴のストラップを留めながら話しかけた。
「今日は学校の帰りにエリと買い物に行くから少し遅くなる。ローのごはんとお水、お願いします」
「わかったわ。あまり遅くならないようにね」
「うん。行ってきます」
すぐにドアを開け、玄関を出た。少しだけわだかまりがあったがそれでも会話ができたから良かった。ただドレスを買うことは内緒のままだ。
リリーが家を出たあと、すぐに両親の間で喧嘩が始まっていた。リリーがいる間は寝室に隠れていたようだ。さすがに酒に酔って朝帰りし、強い香水の匂いをぷんぷんさせ、着衣も乱れていた父親の姿を自分もあの子に見せたくなかったのだろう。マリはいつまでこの状態が続くのかわからなくなってリビングに行って頭を抱えた。マリママがそのそばに寄り添う。
「もう嫌。だめだわ。このままじゃ何もかも失くしてしまう。優しい気持ちすら……」
「マリ、あなたが大変なのはもちろん判っているわ。けれどリリーの気持ちもきちんと考えてあげて。あなたは気づいていないけれどあの子の心は常にエマージェンシーを発しているのよ」
「マリママ、それはどういうこと?」
その時、玄関のドアが開く音と「うわっ」と父親が叫ぶ声が聞こえた。
「何ごと?」
マリが一瞬だけ窓を見た時、見慣れた後ろ姿を見て驚愕した。ローが外に出ている。
「あなた、そばにいるならローをつかまえて!」
しかし、猫の足に適うはずもなく父はお手上げ状態だった。ローが外に出てしまった原因は、父がローの姿を確認もせず玄関のドアを開けたからだ。生まれた時から家で暮らしているローは外の世界をまったく知らない。そしてマリはリリーにローのことを頼まれたばかりだ。
「大丈夫だよ。猫には帰巣本能があるんだ。すぐに帰ってくるさ」
「あなたはリリーにも同じことが言えるの?」
「君は猫と娘を一緒にするのか?」
どんな言葉も諍いになって娘がそっちのけになってしまうふたりに対し、マリママは厳しい目を向けた。
リリーはエリとふたりでたくさんのお店を見て回った。マリママが着る蝶の羽根のような美しい生地のドレスはやはり高価なので手が出ず、内心ため息をついた。途中でカフェに寄ってミルクティーを飲み、おしゃべりをしてまたドレス探しに出た。なかなかピンと来るドレスが見つからず、先に決めてしまっていたエリが一緒に探してくれた。そのエリがリリーの肩を叩く。
「ドレスもいいけどこれどう? リリーに似合うよ」
エリがリリーに薦めて来たそれはとても繊細な作りのショールだった。薄い緑色をしていてまるでマリママの深く澄んだ瞳のようだった。生地にはきらきらと輝く糸が織りこまれていてとても美しい。
「きれい……」
ため息のような声でリリーはそのショールにそっと触れた。少し値段が張ったけれど運命だと思い、見つけてくれたエリに感謝をしてそのショールを購入した。その分ドレスの条件は少しだけ下げたけれど満足だった。ふたりは買ったばかりのドレスを纏って少し外を歩いた。少し高いヒールのストラップシューズにもよく似合ってる。リリーは久しぶりに心が軽くなるのを感じた。
その時、ローに良く似たグレーの猫が小走りに向かいの道路を駆けて行った。まさか、こんなところにいるはずがない。そう思ったが胸騒ぎがしてエリに電話を借りて家に電話をした。
「リリー? エリちゃんの電話よね。どうしたの?」
「うん、気になることがあって。ねえ、ローは家にいるよね?」
母親は驚く。
「……えっ、どうして? 虫の知らせかしら。あのね、外に出ちゃったの。大丈夫よ、きっとすぐに怖くなって戻ると思うわ。それよりあなたこそきちんと早い時間に」
リリーは途中で電話を切った。エリに事情を話すと一緒に探すと言ってくれたが、夕闇が迫り辺りは暗くなってきた。リリーは笑顔を作って母の台詞をそのままエリに伝えて安心させ、今日はとりあえず帰ろう、と言い、エリとは別れてひとりで探すことに決めた。
「ロー、わたしを置いて行かないで」
リリーはローに似た猫が姿を消した狭い路地へ入っていった。
家では母とマリママふたりになっていた。父は自分に非があるのでそそくさと散歩がてらローを見てくる、と言って家を出ていた。ふたりは窓にへばりつくようにしてローの姿を探していた。先ほども家の外にローの大好きなおやつを持って名前を呼んだが、これだけ車や人の往来が激しい時間帯だと怖がって出てこないだろう。ふと時計を見ると二十時を回っていた。リリーが外出するには遅すぎる時間だ。リリーは携帯電話を持っていない。
「マリ。リリーがよく行くカフェに連絡しなさい。いなければ仲良しのお友達のところにも」
マリママはきっぱりとした口調で言う。カフェは既にリリーたちが帰ったあとだった。すぐに学校の連絡帳を出して片っ端からリリーの友達の家に電話をかけた。
リリーはひとりきり、路地裏でしゃがみ込んでいた。
最近満足に食事を摂っていなかったせいだろうか。突然貧血を起こし、気持ちが悪くなったせいだ。誰もいないアパートのエントランスを見つけ、その中に入り、具合の悪さには勝てず古い木の床に横になった。ショールだけは胸に抱いて床にくっつけずに。そのまま仰向けになると小さな天窓が開いていて、いくつか星が見えた。
「ロー、どこにいるの。ひとりにしないで。わたしも一緒に連れて行って」
リリーはつぶやきながら意識を失った。冬の風が冷たい。
リリーの夢の中で、マリママによく似たおばあさんと、その後ろをローのような猫が従うように歩いていた。
「マリママ? ロー?」
リリーは訊ねる。マリママらしき人が振り返って微笑んだ。
「そのドレスとショール、素敵ね。とても似合っているわ」
「ありがとう! マリママ、ローと一緒だったんだね」
「そうよ。早くおうちに帰らなくちゃ」
リリーはマリママに抱きついた。
「わたし、マリママと一緒にいたい。帰りたくない。ううん。どこにも行きたくない。これからも人生が続いて行くことが怖いよ」
「リリー、本気なの?」
「本気だよ」
「それじゃあ、まずはあなたがおうちに帰るところから始めましょうか。大丈夫、私も一緒に行くから」
「ありがと、マリママ」
マリママが手を差し延べる。なぜだろう、マリママの手が透けていた。ぼんやりと手を見ていると、あっという間にリリーは自分の部屋のベッドの中にいた。すぐに上体を起こすと目眩がしてベッドから落ちそうになり、マリママが支えてくれた。
「……これは夢?」
「さあ、どちらでしょうね。大丈夫?」
「少し目眩がする」
「リリー、私と一緒に暮らす?」
リリーは顔を上げて縋りつくようにマリママを見た。
「マリママ、嬉しい。とても嬉しいよ。ローも連れて行っていいでしょ?」
「残念だけどそれはできないわ」
「どうして?」
「詳しくは言えないけれど、ローは無理なのよ」
リリーは目を伏せ、しばらく考え込んだがやがてマリママをまっすぐ見つめた。
「わたし、ローだけは幸せにしたいの。この子をわたしと同じ寂しい目に遭わせたくない。だからマリママと暮らすのを諦める……」
リリーにとって、あまりにも複雑な感情だったので語尾を話す声がすぼんでしまった。
「いい子ね」
そう言ってマリママはいつものように優しく髪を撫でてくれた。
「リリー、あなたの考え方が好きよ。人生は選択の連続なの。時折考えすぎて疲れてしまうかも知れないけれど、その時は全てを投げ出してでもいいから体を休めて。その間は自分の洗濯の時間よ。洗濯を終えてまっさらになったらまた選択の繰り返し。でもそんな人生の真っ只中で少しでも寛げる場所があったらどんなにか安らぐと思うの。だからあなたの心を安堵させてくれるものを大切にしてね。ローや友達を思いやるあなたは素晴らしい選択をしているわ」
リリーはマリママの言葉を祈りのように胸に受け止めた。髪を撫でるその手はやはりあちら側の景色が透けて見えたのでリリーが疑問を投げかけようとした時、視界が遮られた。
やはり家にいるのは夢だった。
リリーは先ほどと同じ床の上にいた。体がすっかり冷えて寒気がする。けれど少し眠ったおかげで目眩は治まり体が動くようになった。とにかく家に戻ろう。路地裏は灯りが少なく、よく見えなくて怖い。おまけにどうやって帰ったらいいのかわからない。リリーの全身に鳥肌が立つ。途中何度も靴の裏が滑って転びそうになった。少しでも明るい場所を目指さなければ。
すると、不安なリリーの目にローのしっぽのような輝きが映り、招くようにゆらりと動いた。リリーは訳がわからなかったがそれでもそのしっぽのような光を追いかけた。すると見慣れた街角が現れ、そこを折れるとリリーの家があった。玄関先にはお父さんもお母さんも揃って立っていた。今日いちばんの夢だと思った。
「リリー! 一体どこに行っていたの!」
一瞬、怒られるかと思い、リリーは身を竦めた。しかしふたりともリリーをしっかりと抱きしめた。
「……お母さん、お父さん、これは夢?」
「バカね、夢じゃないわよ」
「そうだよ、とても心配したよ」
リリーの耳に、ふたりの声が優しく確かに聞こえた。
後日、熱があったと判り、しばらくベッドに横になる日々が続いた。あの日、リリーを家に導いてくれた幻のような光の正体は結局わからずじまいだった。ローはリリーの帰宅後、間もなく帰ってきた。色んな場所をさ迷ったのか蜘蛛の巣を体中に引っかけていた。リリーはそんなローを腕の中に抱きしめて、えらい子ね。帰ってきてくれてありがとう、と何度も言った。ローはリリーの腕の中で震えていた。
リリーの容態が落ち着いてから、お母さんに話を聞くと、駆けてきたリリーのドレス姿を見てお父さんもお母さんもとても驚いたそうだ。マリママの若い頃にそっくりだったという。そしていつもリリーを可愛がってくれたマリママは、おじいちゃんが死んでから間もなく後を追うように亡くなっていた。もう数年前になる。マリママは不安定な母の前にしか姿を現さなかった。けれどいつの間にかリリーにまで自分の姿が見えるようになり、おまけにマリママが死んだことも忘却しているという事実を知り危険だと考えた。だから自分の娘であり、リリーの母親であるマリに警告として伝えた。その警告は父親にもわからせる必要があった。父親の前に突如亡くなった義母が姿を現したので仰天していたが「しっかりなさい。もしもリリーを失ったらあなたたちは浮気の喧嘩なんかじゃ済まないような大きな後悔をするのよ」この言葉を聞き、父親はマリママが現れた恐怖が瞬時に吹き飛んだ。本来いないはずのマリママだからこそ信憑性があった。マリママの厳しい愛情が両親を束の間結束させた。
思えば、ずっと食欲がなく抵抗力が落ちていたため貧血や熱まで出してしまったリリーだが、今回のことで栄養を摂るようになるとマリママが既にこの世の人ではないことを自然に思い出した。だからこそマリママと一緒にいた時間は今考えると不思議だ。けれどまったく怖くなかったし幻の中をぼんやり過ごしていた訳じゃない。だからマリママとの輝く日々を『真実の夢』と名づけた。それから程なくして両親の離婚が決まり、リリーは自らの意志で母の元で暮らすことを選択した。そしてリリーはふと思い出す。マリママが『真実の夢』の中で心に刻んでくれた言葉を。人生は選択の連続。それを思っただけでグッと体が重くなるけれど、マリママの言ったように、少しずつ休みながら生きようと思った。
逃げ出したあの日からローにも少しだけ変化があった。いつものようにお気に入りの場所ですやすやと眠っているが、うっかりいきなり体に触れてしまうと驚いて瞬時に機敏な反応をする。ただ相手がリリーとわかるとすぐに安心した顔になり眠りの続きに戻った。もういちど柔らかく触れると今度はおとなしく撫でさせてくれた。それがリリーにはせつなく映る。
「怖かったんだね。わたしも怖かった」
リリーの目に涙が溢れ、もはや表面張力だけで保っていて今にも流れる星のように震えている。
「ロー、あなたが帰って来てくれて嬉しい」
―― リリー、それはあなたにも同じことが言えるのよ。
あなたがあまりにも儚げに見えて、本当にあなたを連れて行こうかと思った。けれどあなたはローのことを決して見放したりしなかった。もちろん寂しかったけれど嬉しさの方が大きかった。私の手を取るようなことが若いあなたに二度と訪れませんように。
遠くから空気が揺れるようにマリママの声が聞こえた気がして瞳を動かすと、その拍子に涙がこぼれた。温かなリリーの涙で部屋の湿度がほんの少し上昇し、香水が蒸発する。リリーに似合うとマリママが言ってくれた香り。顔が火照り出したので、ローが出られないくらいに細く窓を開けて星を眺めた。リリーの息が白くかすんで消えていった。その隣にもうひとつ、白い吐息が溶けて行くのが見えた。
《 了 》
初出 2016-11-22
推敲 2024-12-20
あとがき
登場人物にラ行が重なったため、判りやすいよう珍しく登場人物を書き出してみました。2016年に書いた作品ですが、どうしようもない現実はあるけれどそれでも優しい物語を読みたいと思い、掘り起こして来ました。既に発表済みではありますが自分含め、あまり知られていないと思います(自意識過剰か)
2016年という年は、当時所属していたサークルで個人的に何作も立て続けに発表していた為、アウトプットの量にインプットが間に合わず、もはやこれまで……! と思いながら書いておりましたが、現在読むとそこまで切迫した小説には思えませんでした。ぜひともご一読いただければ、と思います。そして、ここまで読んで下さった皆様、どうもありがとうございます。
幸坂かゆり😸
Photo : Taylor Marie Hill