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罪と罰

 つい、癖でポケットに手を突っ込んでしまう。そこに携帯電話はないとわかっているのに。仕事用のものはある。プライベートで使う方だ。家に置いて来てしまったのだろうか。少し焦ったが、もしこのまま見つからなかったら彩子に鳴らしてもらうまでだ。
 彩子は僕の妻だ。
 派手さはないが柔和で大人しくて、いつも美味しい夕食を作って待っていてくれる。しかし仕事を終えて家に戻ると、部屋の中の雰囲気が違った。いつもならするはずの料理のいい匂いもしない。とにかく彩子がいない。何度も呼んだが返事もない。何か用事でもあっただろうか、と考えてカレンダーを見たが何も書いていない。どうしたものかと思いながらソファーに座ると目の前のテーブルに置き手紙を見つけた。慌てて中身を見ると、彩子の自筆が目に入った。

『実家に戻ります 彩子』

 ……参った。彩子は知ってしまったのだ。僕の浮気を。

 それにしても一体どこに置いたのか、携帯電話がどこにもない。
 結局、時間ばかりが過ぎてしまうので緊張はしたが固定電話を使い、彩子の実家に電話をした。幸いにも彩子本人が出てくれたが、彩子はどうしても、帰らない、の一点張りだった。一瞬、携帯電話のことを思い出したが、まさか帰って来て欲しいと懇願している最中の妻に向かって、僕の携帯電話を見なかったか? などと聞けるはずもなく、とりつくしまもないまま電話は切れた。その固定電話からもとっくに自分の番号にかけてみたが部屋の中からは音沙汰がなかった。鞄の中は既に念入りに調べたばかりだ。
 テーブルの下、ソファーの裏側、納戸、ベッドの中、枕の下、冷蔵庫、果ては靴の中まで探しているのに見つからない。どこにいても連絡が取れるようにしておきたいと言うのに。何と言っても、事態は急を要するのだ。

 浮気をした相手は高校時代のクラスメイトだった。
 先月、同窓会があった。その時の二次会のことで遊びだった。本気じゃない。肝心の相手、白井依子(よりこ)も本気ではないのだ。終わってしまった関係で彩子を失いたくない。けれど彩子の頑固さは分かっている。もちろん簡単に許してくれるとは思っていない。誠意を持って謝らなければ。
 ため息をついてネクタイを外し、ソファーに横になった。部屋を見渡すと彩子がいないだけですべてががらんどうに映った。彩子は家事が好きだった。語弊があるな。正確には家事を楽しんでいる人だ。いつも部屋の中は掃除が行き届いていたが、それを僕にやれと押し付けることもなかった。そしていつもどこかに隙があるような所が安心できた。今も目の先の食器棚の上に先日、彩子が気に入って買って来た鮮やかな色をした猫の置き物がちょこんと鎮座していた。そんなことひとつ取っても僕にとって彩子は愛おしく大事な人だ。たった一度の(いや、一度ではないかも……)過ちで彩子を失くしたくない。都合がいい考えだがどんなに浮気をしても彩子だけは僕の中で特別な人なのだ。

 彩子の実家へ出向こうと思い、用意をしていると思いがけなく彩子の方から電話が来た。
「もしもし」
「私よ、彩子」
「どうしてさっき電話を切ったんだ?」
「あなたが同じことばかり言うから」
「本気だからだよ」
「ねえ、気分を変えて明日、外出してそこで話さない?」
「どこに行きたいんだ?」
「静かなバー」
「バー?」
「そう、だってどうせあなたがこっちに来たって両親に頭を下げるだけでしょう? 私はきちんとあなた自身と話がしたいの」
「いつも僕自身だと思うけど……」
「とにかく明日、二十時に待ってる」
 彩子は場所を指定して、また電話は唐突に切れた。そこはまだ僕らが恋人だった時にふたりでよく飲みに行っていた静かで落ち着いた店で、彩子のお気に入りでもあった。

 次の日、約束した時間よりも随分前に店に着いた。
 カウンターに座ると、途端に落ち着かなくなり、軽い酒を一杯頼んだ。強い酒を選ばなかったのは酔って頭がはっきりしなくなったらまずいと思ったからだ。

 彩子は時間通りに現れた。
 さらりと極自然に僕の左隣のスツールに座った。見たことのない淡いグリーンのニットのワンピースを着ていた。彩子はすぐバーテンダーにドライマティーニを頼んだ。彩子の好きなカクテルだ。いつも最初にカクテルピンに刺さったオリーブを食べる。その艶やかなオリーブとよく似た色のワンピースは彩子の体の線を際立たせ、細身の彩子の体によく似合っていた。いつもの香水もきつ過ぎず仄かに香っている。なぜだか一日会っていないだけなのに愛おしくて、すぐに彩子を抱きしめたくなった。

 しかし彩子は現実的な言葉から始めた。
「家の中、一日しか経ってないけど大変なことになっているんじゃない?」「……もちろんだ。君がいないと僕は何もできない」
「出来ることなんて山ほどあるくせに」
 明らかにあてつけの言葉だ。
「謝る。何度でも謝る」
「依子さんはお元気?」
「会ってないよ」
「そうでしょうね」
 僕と彩子がそうして話をしている時、客が入ってきて僕の右隣のスツールに座ったので、心持ちぶつからないよう距離を取りつつ何となく顔を見た。その顔を見て仰天した。白井依子だった。
「私が呼んだの」
 彩子はマティーニをひとくち飲むと、余裕のある表情で言った。
「私たちが連絡を取っているの知らなかったでしょう」
「知る訳ないだろう」
「そうよね。私、あなたの携帯電話を間違えて持って来ちゃったの」
「何だって?」

 元々、彩子と僕の電話は同じ機種だった。
 彩子の柔和な雰囲気から考えると、身につけるものは華奢なデザインが似合いそうなものなのに、彩子自身は男物のようないかついデザインの物を以前から好み、時折僕の鞄やシャツなど共有することも多い。電話のひとつくらいさりげなくすり替えられたとしても僕は気づけなかっただろう。だけど間違えたなんて絶対に嘘だ。彩子にとっては僕みたいに能天気で浮気すらばれてしまうような鈍感な男など騙すことなんて朝飯前だろう。彩子はおもむろにバッグの中から僕の携帯電話を出してカウンターの上に置いた。
「でも僕は何度も電話したんだぜ?」
「電源なんて切ってあるもの。ついさっき着信がたくさん来てるって確認したばかりよ」
 ……ばっさりと体ごと切られたような気分だった。
「私の電話はドレッサーの引き出しの中よ」
 さすがに彩子の私物がある場所までは探していなかった。盲点だ。それを告げると、いい子ね、などと言われた。しかし悔しいことに言い返せなかった。
「彩子さんとはよく会ってたの」
 依子が顔を近づけて話した。
「そう、あなたの電話に何度も連絡が入っていたから依子さんにすべて話したわ。そのうち、最初はこの女性なのね、なんて少しだけ嫉妬を感じたけれど話が趣味だとか広範囲に及んだとき、私たちものすごく気が合うってわかったのよ」
 ふたりの女は僕がいない間にすっかり打ち解けていた。だが、一体どこから逸れて趣味の話になんてなるのか不思議だ。

「だから私、怒ってるんじゃないのよ」
 彩子は微笑んだ。
「私もよ」
 依子も微笑んだ。
 ふたりの魅力的な女の間にいる僕が、とてつもなく間抜けに思えた。
「だけど、傷ついた」
 修羅場の最中で内心ため息をついている中、ふと小さく彩子が放った言葉は、瞬時に僕の胸を刺した。
「だから、少しくらいの罰を与えてもいいでしょう?」
 そのひとことは、瞬時に彩子の優しい笑顔を小悪魔に見せた。
「私に帰って来て欲しい?」
「……もちろんだ」
「じゃあ、今日はこのまま送って欲しい。実家ではなく。ホテルの部屋を予約してあるの」
「いつ、帰って来るんだ?」
「それまで彩子さんは私と一緒にいるの」
 依子が身を乗り出し、僕たちの会話を遮った。
 彩子とは違う香りが漂う。結局、僕は美味しそうに酒を飲むふたりの女を介抱する役割すら断られ、ホテルの入り口まで送り届けるに留まった。酔っ払って覚束ない足取りで半ば抱き合い、ふらふらと仲良くホテルに入って行く女ふたりの後ろ姿をただ呆然と眺めながら僕はホテルの入り口に立ち尽くしていた。何がどうなってるんだ。どういう関係なんだ。

 そのまま踵を返し、急いでタクシーで帰宅し、家に着くなり彩子のドレッサーの引き出しを開けた。電話はすぐに見つかった。電池はとっくに切れていた。充電しながら彩子の持つ僕の携帯電話に連絡した。思いがけなく彩子はすぐに電話に出た。先ほどと打って変わって冷静な声になっていたので緊張が走った。あれは演技か?
「着いたのね」
「着いた」
「ごめんなさいね、驚かせて。依子さんはもう帰ったわよ」
「帰った? 」
「言ったでしょう、罰だって。依子さんと仲が良くなったのは本当だけど、今日はわざわざ出向いてもらったの。彼女、婚約者がいるそうだから私の復讐に喜んで乗ってくれたわ」
 一気に脱力した。僕も遊んでいたが依子にも遊ばれていたのだ。まあ、自業自得か。本気で自分を情けなく感じた。僕は彩子に部屋の番号を聞いた。「今からそっちに行く」
「勝手にどうぞ」
 突き放すような言葉に甘い含み笑いを添えて彩子は電話を切った。
 もちろん根本が解決されていないのは悩みの種ではあったが、いつも温和で優しいとばかり思っていた彩子の挑戦的な女の部分を初めて見たような気がして少し興奮していた。

 部屋に着くと、ホテルのローブを纏った彩子が笑顔で僕を招き入れた。シャワーを浴びたばかりなのか髪が湿っていた。
「お酒でも飲む?」
 僕は彩子の背中から腕を回し、抱きしめた。
「酒より君がいい」
「だめ」
 その少し掠れた声が否定には聞こえなくて、彩子のローブを肩からするりと落とした。見た目より肉感的な彩子の体は抱きしめると心地良く柔らかい。
「だめだって言ってるでしょ。また罰が欲しいの?」
「君からの罰なら構わない」
「困ったひとね。それならいいわ……」
 たまらなくなって僕は彩子の肩にくちづけた。

 次の日、目が覚めてから我に返り、上体を起こした。確かに昨日のホテルだ。しかし彩子の姿がない。荷物も。慌てて服を着ようとして昨夜その辺に脱ぎ捨てた服を引っつかんだ。が、僕の下着だけ見つからなかった。焦った。とりあえず昨夜彩子が着ていたローブをタオル代わりにして裸の上に適当に着て、下着を探すために立ち上がるとテーブルの上には、またしてもメモが残されていた。

 罰が欲しいんでしょ? 
 先に帰っているからそのままでいらっしゃい   彩子

 やられた。仕方なく下着なしでズボンを履いたが何とも落ち着かず、変な体勢で家に戻る羽目になった。部屋では彩子がまた昨日みたいに小悪魔のような顔をして笑っているに違いない。けれど慌てて失くしたものを探るより、探しモノは家にあった方がずっといい。


《 Fin 》

初出 2004年10月1日
解説

この物語はシンガーソングライター、大澤誉志幸さんの曲から想起したもの書いていくシリーズの中の一作です。
2002年にパソコンを入手し、キーボードの打ち方もよく解らないけれど、どうしてもやりたかったのは、お気に入りのイメージ画像を添えた小説を書くことでした。拙いながら自分の書いた物が活字に変換されることにただただ感激し、嬉しくて、朝までずっとキーボードをカタカタ言わせていました。無邪気な時期でした。
この掌編は自分の文章と言うより、当時愛読していた片岡義男さんの影響が強く窺える小説です。彼の世界をほぼ模倣している、と言っても過言ではありません。ちなみに当然、手直しはしています。久しぶりに読み返したところ、辻褄の合わない部分をたくさん見つけてしまったのでした。時代を感じます。読んでいただき、ありがとうございます。

幸坂かゆり


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幸坂かゆり
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