無意識の海で光る灯台
こんにちは
どうもワタクシです。
最近はずっとテクニカルな話ばかり書いていたので、すこし本質的なお話をしたいと思います。本質的な話をしようとするとどうしても抽象的にならざる得ない事をご理解ください。
唐突ですが
マッサージなどのボディ系施術を受けるのが好きな方というのは「触れられたい」という思いがあります。
これは本人すら気づいていないことですが、本人が意識できる「肩こりがあるから」とか「腰が痛いから」といった表面意識の下に必ず「触れられたい」という思いがあります。
そして施術者側も同様に本人の表面意識に上がっていようがいまいが「触れたい」という思いが必ずあります。
そんなふうに本人が普段意識できる表面意識の下にある意識や思いに気づくという事をやっていくと、いろんな物事が理解しやすくなっていきます。
私たちの普段認識できる表面意識の下には、無限の意識が広がっています。
これがユングの提唱した中心概念である集合的無意識論になります。
精神世界・スピリチュアルの分野で言われる「アカシックレコード」もこれの事を指しています。
何かのキッカケで突然その無限の無意識領域にアクセスしてしまい混乱(カオス)に陥るのが、巫病や神ダーリーの正体です。(そして精神疾患も同じですが方向性が少し違うだけ)
普段わたしたちは自我をしっかりと持って生きています。
みな「私はわたしだ」という感覚を当たり前にもって生きていると思います。
この「私はわたしだ」という感覚というものは、実は自分一人で独立して持っている感覚ではなく人と人との繋がり・関係性で維持されています。
母親である、妻である、友達といる時の私、職場での立場の私、そういった関係性の上で自我というものは成り立っているのです。(そういう意味では確固とした私、固まった自我というものは存在しません。自我というものは関係性であり、とても流動的なものなのです)
そしてこの「私はわたしだ」という自我が弱まる時に、無限の無意識領域にアクセスしやすくなってしまうのです。
ですから、環境の変わりやすい(人間関係が変わりやすい)春には精神疾患が増えるわけです。巫病や神ダーリーが起こりやすいのも思春期や更年期・病気など人生ステージの変化の時期だったりするわけです。
それで、ここからが本題ですが
精神疾患にせよ、巫病にせよ
自我が弱まってしまい無限の無意識領域にアクセスするのは同じ事です。
その先、不安と恐怖に支配される精神疾患へと進んでしまう場合と(いわゆる憑依状態)
巫病や神ダーリーとして、それを克服してある程度自我を取り戻し帰還できる場合とでは何が違うのでしょうか?
それは目印です。
フックでありインデックスです。
知恵ともいうかもしれません。
もしかしたら、文化だったりもします。
人との出会いもそうです。
私の場合は沖縄人だったから、神ダーリーという文化を知っていたからですし、神職との出会いにより巫病というものを知ることが出来た。
また竜の集合意識や、琉球・先祖の意識にも助けられました。
そして、その方向性の無意識領域に導かれていったわけです。
この無限の無意識領域には本当に無限の意識がうごめいています。
なにひとつ目印が無いと、あっという間に飲み込まれてしまうと思います。
そして、中途半端な目印では、あっという間に迷子になってしまいます。
私もいまでもあっという間に飲み込まれてしまいそうになります。
もしくは飲み込まれてしまっています。
ですが、ある目印さえもっていれば、必ず帰還できます。
自分の足元を見失うことなく、歩くことができます。
それは
「私たちは光である」ということ
照れくさい言葉かもしれません。
厨二病みたいかもしれません。
ですが、無限の宇宙といえる無意識の海を泳ぐ時
不動の灯台から届く光の道標は必ずあなたを助けます。
わたしたちは光です
全ては愛 i (私・情報・心)で出来ていて
全ては愛を求めていて
全ては愛で可能になります
この目印
この知恵の光さえ見つめていれば、あなたは必ず帰還します。
ヒントになれば幸いです。
全ての生きとし生けるものが幸せでありますように。