性的モノ化の陳腐化 ~古すぎるポルノの想定~
せっかくなので、フェミニズムの知見を書いていこうと思う
性的モノ化の定義
第二波フェミニズムでは女性とポルノについて盛んな議論が行われた。その中心概念が「性的モノ化」であった。
「性的モノ化と性の倫理学:江口 聡」から引用する
性的モノ化(sexual objectification、性的客体化・物象化)は第二波フェミニズムの中心的キーワードの一つである。売買春、ポルノグラフィー、レイプ、セクシュアルハラスメントなどの社会的問題を論じる際には必ずといってよいほど登場する概念である。のみならず、商業広告、美人コンテストやレースクィーン、女性のルックスの過剰な重視、社会的関係における美しくない女性の冷遇などを批判する文脈でも問題にされる。国内では1990年代に「性の商品化」が盛んに議論されたが、商品化とは女性のセクシュアリティがモノ化されたのちに、さらに市場で流通するという現象であって、性的モノ化の方が論理的に先行すると思われる1)。
つまり、女性がモノとして流通することは倫理的に問題があるという議論である。少し前に巷で話題になった「性的消費」も「モノ化した財産である女性を利用する=消費する」という意味であろうと思われる。
つまり、性的消費が倫理的に問題があるとするならば、それはモノ化の過程なのだ。
それでは女性はどのように「モノ」になるのか。女性が「モノ化」される過程を、第二波フェミニスト、マーサ・ヌスバウムは次のようにまとめている
1.道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
2.自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持つことを否定する。
3.不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
4.代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
5.毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundary-integrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
6.所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
7.主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。
つまり女性を代替可能な道具にすることで、女性の人間性が無視されている、という状況である。
なるほど、確かに人間をモノにし、奴隷のように市場に流通させるというのは、確かに倫理的に問題があるだろう。
しかし、性的モノ化は少なくとも二つの面で、法概念として確立させることに失敗した。性的モノ化自体、非常に古い概念なので、その議論は尽くされているだろう。今回は、個人的に原因であるだろう、二つの失敗理由について述べようと思う。(そして陳腐化してしまった一つの理由)
曖昧な基準 ~どの女性にも適用できてしまった~
性的モノ化は女性を道具化することと、道具化することによって女性を傷つけるすべての行為を否定する。
だが、よく考えて欲しいが、社会関係とは、基本的に誰かに利用されたり、利用したりして成り立っていないだろうか?
誰かが、医者にかかったり、看護婦に助けを求めることを医的モノ化と考える人はいないだろう。そもそも、誰かに利用されなければ、社会の中で働くことなど不可能だ。
また、「自立性の否定」に至ってはさらに厄介だ。例えば、第二波フェミニズムではミスコンテストの廃絶運動なども行われた。
しかし、ごく普通に考えれば、ミスコンテストの出場女性は、自らの美しさに自信をもっているので出場している。「その美しさが男性社会によって作られたものだとしたら?」「その女性は男性社会にいるせいで正常な判断ができないとしたら?」ここまでくると「自由意志」の存在自体を否定しかねない、懐疑主義の哲学論争になるだろう。
残念なことに、現実の社会法制としての尺度足りえなかった。
余談だが、フェミニズムの歴史の中で「罰すべき性的モノ」と「崇高な芸術」に分ける大激論が行われたことがある。
これは今日ではセックスウォーと呼ばれ、その結果は1970年の映画産業が栄えるアメリカで「フェミニスト映画理論」として残っている。
そして、フェミニスト映画理論は結論から言えば、体系化に失敗した。
当時の様子をフェミニストのベティドッドソンはこう語っている。
北原みのり「男のファンタジーで成り立つポルノグラフィーとは違うチャンネルで、性を表現することは必要だと思うのだけど。」
ベティドッドソン「それはとても大切なことだわ。でも、注意深くやらなくてはいけないわね。
今アメリカでフェミニズムの動きがにぶくなってきている原因は、女たちが性の表現について敏感になりすぎたところにあるのよ。80年代に入って、フェミニストたちはこぞって、これはポルノ、これはアート、というふうに検証していったのね。何が政治的に正しいのか、そうではないのか、なんてね。女性同士でもみんな意見が違った。そして、激しい論争が続き、フェミニストたちは分裂していったの。女性達が論争している間、男たちはどうしていたと思う? ただ、笑って見ていただけよ。結局フェミニストは力が無くなってしまった。何を選ぶか、何をいいと思うかは個人的な選択に任せるしかないの。個人には選ぶ権利があるのだもの。」
つまり、この理論は理論的にも、経験的にも、社会の基準足りえなかったのである。
利用が煩雑 ~このルールを利用する人に大きな労力を強いる~
マーサ・ヌスバウムの7つの基準は、そもそも煩雑である。なぜかというと、この基準の利用者に(主として)女性個人と男性(個人~多数)の間の関係性の読解を要求するからだ。
つまり、女性がどのように思うか、というそこに至る過程、背景、実際に行われたこと、男性がどのように女性を利用するかの、過程、背景、実際の利用方法を、同時に照らし合わせなければならない。しかも、その基準が7つもある。
この時点で、図書を取り締まる基準としては、次のNoteで解説するが既存の「わいせつ」より、はるかに煩雑で、判断者に多大な解釈の余地を残す、ルールとしては客観性の弱いものになってしまった(わいせつもそんなに強いルールではないけど(´・ω・`))
昼ドラとして読む分には面白いが、昼ドラの感想で、罰を与えられる人間が出て来てはたまらない。事実、どの先進国も、この基準をわいせつ図書の規制に用いなかった。
性的モノ化の陳腐化 ~実在女性を利用しないエロ表現:CGの登場~
そして以上の議論は、コンピューターの発達ですべて陳腐化してしまった。そもそも性的モノ化が発明された1970年代は、アメリカ映画産業の勃興の時期である。
巷では車、写真、映画があふれ、国民は様々な娯楽を享受していた。その中で、現代に生きる我々は、1970年代のアメリカ人が享受していなった革新的な娯楽がある。コンピューターである。
ご存じの通りコンピューターはペイントCG(いわゆる二次元)や3DCGも、実在のモデルなしに作ることが出来る。
現在、日本で話題になっている性的モノ化はほとんど、アニメや漫画のキャラクターであり、実在のモデルが存在しない、しいて言えば、初めからモノ化しなくても性的モノなのである。
1970年代のアメリカではどうだったからというと、ポルノ漫画は圧倒的に数が少なかった。現代のようにコンピューターで漫画が描ける時代ではなかったからである。
ここで、1977年に発売された世界初のパーソナルコンピューター、AppleIIのグラフィックを見てみよう。
1977年Wizardry
そもそも当時のグラフィックでは16色までしか描画できないのであって、このくらいの描画能力ではポルノ足りえなかった。
16色の描画でもアダルトゲームは存在するが、さらに画面の解像度が細かくなる1980年以降のことである
1989年
ハード:PC88シリーズ「はっちゃけあやよさん」
つまり、1970年のアメリカで、まさかCGによってアダルト表現ができると思っている人間は存在していなかったのである。
事実、キャサリン・マッキノンやドウォーキンも漫画やアニメのポルノについては頓珍漢な議論しかできていなかった(まぁ、最初から頓珍漢ではあるけど)
そして、この「性的モノ化」理論を、実在しない女性、非実在女性に当てはめると議論がさらにおかしくなる。
そもそも初めから絵であるモノに「人間性を剥奪されている」とする議論に無理があるだろう。そもそも被害者が存在しない上、創作の美少女は煮るなり、焼くなり、作った人の自由なのだから。
実在しない女性を殺して、罪に問われるなら、刑務所はドラマ業界の関係者でいっぱいになっているだろう。
そして、おそらくそのような結果は誰も望んでいないはずである。
「わいせつ」の議論
ここまでダラダラと書いたが、ぶっちゃけて言うと、性的モノ化や、女性差別という面で議論を進めるからこうなるのであって、日本には、確実に、そして60年以上の実績をもって、エッチな本を取り締まる概念が存在しているのである。
それが「わいせつ」である。
次のNoteで自分なりにまとめた「わいせつ」の概要を書いていこうと思う
次 現代わいせつ概説 ~卑猥なものを取り締まる判断の基準~
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