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🇮🇳印度古典舞踊②バラタナティアム🇮🇳


地道にステップ、踊りを学びあっという間に、時間がたち、2、3年後、朝日生命ホームで、生徒発表会が開かれました。


なんとなんと、私はその日の朝、自転車の二人乗りで、右足の甲を、柵にガツンと酷くぶつけてしまいました😱 足を冷やす湿布をたくさん買い込んで、みんなに内緒で踊りきりました‥

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夜は足が倍くらいに腫れて、大変でした。骨折してなかったのが、何よりですが‥多分‥踊れたので‥病院に行ってないからわかりませんが‥後にも先にも、こんなことは、これ一回こっきりです。これでも大難が小難か〜❓



それはそうとして、バレエなどもそうですが、舞台に出るのにも、生徒は、お金がかなりかかります‥会場費、広告ちらし、照明、チケットなどなど‥


私は、舞台での発表会には、ほぼ興味がなく、やりたかったのは、ただ一つ。旦那の展覧会の初日に、開催出来たこと、初日に来てくれた方々に感謝を込めて、オープニングで踊りたかった。ただそれだけ。


ところが、ある日「先生の舞台以外で踊ると破門」と偶然他の人が、どこかで踊ったらしくもめていました。私は初めてそのことを知り、やっとここまできたのですが‥悩み続けていました。



そんな頃、もう一つ事件?が起こっていました。


この頃、オリッシーダンスの有名な先生のお弟子さんが、旦那さんの仕事の都合で、日本にきました。そういう噂はすぐ耳に入ります。「体験クラスに行こう」と誘われて、何人かで行きました。

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さすがはインド人でステキな先生でした。この先生についたら、うまくなるだろうな〜とみんな思いました。



なんでもすぐやる私ではありますが、ここはやりたい気持ちをグッーと抑えて、バラタナティアム一本でいきました。何人かは、掛け持ちで稽古を始めましたが‥もちろん内緒で‥


ところが時間が経つと、言わなくても、身体は正直〜。私が見ててもわかるくらい、すごく上手だった人たちの、バランスが崩れていく‥ 

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バラタナティアムとオリッシーは、同じ印度舞踊なのですが、バラタナティアムは中心線が真っ直ぐで、左右対象な動きが特徴


オリッシーは、ゼット型(Z)を作らなければいけなくて、そこが、色っぽくて、ステキなのですが‥しっかりと、一つの方の踊りが完璧なら、大丈夫だと思いますが。そうでないと混ざる‥


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そして、先生に怒られつつも、バラタナティアムに残った人たちと、完璧にこちらをやめて、彼方の先生についた方に分かれた‥ということもありました。




その頃の東京では、バラタナティアムは、2人しか教わる先生がいませんでした‥(今はたくさんいますが)‥私は、もうインドに踊りの先生を探しにいくしかなくなりました‥

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そんな時、クラスメイトだった日本語ぺらぺらのインド人の友達が、自分の叔母さんがマドラスにいるから、会ってみる?と言ってくれたので、会う❗️と言って、マドラス行きを決めました。


パスポートはあったので、インドの安チケットを買って、友人の叔母さんGさんに「バラタナティアムの先生を探しに行く」と手紙を書きました。



旦那には、「先生が見つからなかったら、キッパリやめるから、インドに行ってくる」と宣言しました。私にとっては、2度目のインドは、大冒険となりました。


結婚してると、相手探しをもうしなくて済むので、自分が、今生でやりたいことを、めいっぱいやれるのは凄くいいし、相手に理解があるとありがたい限りです。



ちなみに私の英語力は、札幌の普通高校で「2」それなのに、家族の引越しで東京に行くことになり、O短大の英文科に推薦で合格💮


これには裏があって、ちょうど私は、中学生の時、器械体操で全道優勝して、全国大会に行っていました。あとでわかったのですが、担任の先生が推薦にうまく書いてくれたようでした。


そこの短大は、となりに大学もあり、大きなところで、先生方はクリスチャンが多く、外人さんもチラホラいました。



学校が始まると、教科書がリーダーとグラマーばっかりみたいな時間割なのに、あとで気がついたて、愕然としました‥(当然英文科〜)


でも環境は恐ろしいというか、いつのまにか、毎日単語を調べて予習していくのが普通になりました。


オーラルコミュニケーションとか、外人の先生の授業とかは、もうほんとに面白かった。


その頃流行の、睡眠学習の枕をバイトで買って、英語の天気予報をテープに入れて、毎晩聴いて寝ていました。効果はよくわかりませんが‥

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何を言いたかったかというと、このおかげで、この時、インドに1人で行けた!短大の2年間のおかげで、やっと普通のところまでこれたので‥


その時は全く解らなくても、先のことに繋がっている‥そんなことがはっきりわかることが、いっぱい起こるから、やりたいことは、手抜きができない‥いつか何かにつながる‥今も織田先生のお陰様で、まだお役に立ててるのが嬉しいです‥


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話は戻って、もう後がない状態でのインドでしたが、友達の叔母さんのGさんのお陰様で、踊りの先生に巡り会えました。


Gさんは3人の先生を考えてくれていました。早速1人目の先生に会いに行き、その場で決めました。


というか、他の方にお会いして、選ぶというのが私にはできそうになかった‥会ったら、縁ができて、それを断るのは3倍くらい大変なので‥


ご縁のあったウマ・ダンダユダパニ先生の亡きお父様も踊りを教えていたらしい‥

そしてさっそく、次の日から、稽古に行くことになりました。月謝は「外人値段」それでも日本円はその時は強かった‥ちなみに当時は、本も外人値段がありました‥


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ウマ・ダンダユダパニ先生の小さい子のクラス。35年位前です。中流階級以上の子たちでないと習えませんでした。日本の茶道、華道のような、お嫁さんに行く前の「たしなみ」。発表会で、「お見合いの相手を家族一同でみる」みたいなこともあったそうです。


そして、ここでまた、あのステップのやり直しの3回目〜。でもどんどん進めてくれて、一カ月で、終わらせ、踊りの稽古に入ってくれました。


稽古用のサリーもいっしょに買いに行ってくださり、とても相性が良かったようです。



これがご縁で、毎年12月20日前後から4月前後まで、3ヶ月間強、インドのマドラスに通うことになってしまいました。4年も通うとは思わなかったですが‥


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2年目からは、Gさんのところに、毎年下宿させていただきました。感謝!


(稽古に通った生活編へ続きます‥)






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