stella noir #風景画杯
Ⅰ
今から語られる全て事柄は定められた命運で、それを覆すことは何人にも叶わない。例えば、僕たちはコンマ1秒後、跡形もなくなって死ぬ未来だって、決して避けようがなかった。
そんな時に僕は、トイレの紙を切らして立ち往生していた。
「園亞ーーーっ、おーーーいっ」
僕は同乗者の名前を大声で呼びつける。僕たちの乗る宇宙船は決して狭いもでのはなく、このSOSが届くか不安だったが、彼女……園亞はすぐさま駆けつけてくれた。
「はいっ!いかがされましたかぁ!」
園亞は扉越しに甲高い声を響かせる。この宇宙船に同じ時期配属された、同期の女だ。何故だか、まるで僕を上司か何かみたいに慕っている。
「あのだ、トイレの紙が切らしたままで困ってる」
「なんと!それは大変申し訳ないあたしの不注意でした!第9倉庫にまだ在庫が残ってた筈ですので取ってまいります!」
「この船には倉庫は1つしかないぞ」
「倉庫が9つもあると思うと面白いのですよ!では取ってきます!」
いまいち理解に苦しむ理屈だ、園亞はそういう所がある。彼女はドカドカと足音を鳴らしながら倉庫へ駆ける。間を置いて、悲鳴が聞こえた。僕は深く溜息をついた。船長とエンカウントしてしまったらしい。
「すわ!ここが最後の砦!此処を守らば象形どもへの勝ちの目は見え、印度洋はいまに開放される、死すべしーーー!」
「ギャーッス!」
そう、今のがこの宇宙船の船長、キャサリン中尉の声だ。かつての船長は厳格ながらも時には優しく、船員の誰もを尊重してくれる人だった。かつての激戦でながらも右腕を失いながらも前線に立ち続ける。尊敬するべき人だった。今は発狂している。
船長と園亞では船長の方が圧倒的に強く、このままではトイレ紙どころか、園亞の命も危ない。僕は便座を立つ。尻の筋肉にギュッと力を込めて下着が汚れないように努める。廊下に出て園亞と船長のもとに向かった、すり足で。
「ぬう敵襲!では私のカーリー神の如き拳で貴様を粉砕せん!粉砕!」
同期の黒い長髪を引っ張っていた船長はこちらに気が付き向かってくる。一方園亞はというと、何故だか自分の身体ではなく眼鏡の方を必死に守っていた。
「キエエーーーーーイ!!!」
「船長、申し訳ありません。セイッ!」
まず僕は船長の鳩尾に拳を入れる。モロに食らった船長がのけぞった所を顔面に軽く掌底打ち、視界が遮られ混乱している内に背後に回り、後頭部を軽く打撃。これが上手いこと入れば、相手は気絶する。今回は、うまくいった。
船長は「オアッ」と短く呻いたのち、廊下にうつ伏せになった。以前の船長は強く、僕でも勝ち目はなかったが、今の船長は全身隙だらけだ。大の字になって眠る船長を見て、僕の中でなんとも言えない気持ちが込み上がった。戦っていた隙に倉庫に潜り込んでいた園亞が戻ってきた。
「いやはや感謝の限りですとも、もう凛さんはあたしにとってのヒーローみたいなものです!あっはいこれ約束の紙です」
「ここから便所戻るの面倒くさ……」
「あと、トイレ紙の在庫がこれ含めて2個になりました、なるべく節約して使いましょう」
「もっとも、これが尽きる前に僕達死ぬかもしれないけどね、時間がいつどのように動き出すのかも分からないし」
「それもそうですねぇ、命の尽きとウンの尽き、どっちが恐ろしいのだか……」
「うまい事言ったつもりか」
ちなみに「凛」というのは僕の名前だ。僕は尻に力を入れながらすり足で便所に戻る。することした後、洗面台で手を洗った。
鏡には色褪せかけの隊服を着た、赤髪の女新兵が映っている。髪は伸びて荒れ放題だし、小ジワも増えた気がする。ここ4ヶ月の生活リズムやストレスが原因だろう。もっとも、今やそんな最低限の美容も気にしてなんかはいないのだけど。
僕は指令室に戻る。指令室には外部からの通信を受信する機器に、ミーティングや食事用のスペース等か兼ね備えられており、今や使い物にならなくなったコックピットとも繋がっている。部屋に入ると、お手伝いロボの「Mirai 3.0」が、キャタピラをカタカタ回しながら出迎えてくれた。
『愚かなる人の子よ、戻ってきたか、ビガガーッ。貴様らの命運は今しがた絶える。覚悟せよ、ガガーッ』
Mirai 3.0は相変わらず船の自爆コマンドを、宇宙船のメインシステム側に入力しているらしい。そんな事をやっても意味がないのに、健気なことだ、そう思いながら僕は操縦席に腰かける。
壮観、その一言でコックピットの外から見える景色を総括してしまうのは失礼という気持ちさえ浮かぶ。外は宇宙空間だが、そんな当然の事実も忘れかけてしまうほどに、その「建造物」の威容は宇宙の暗闇と数多の星々を覆い隠していた。その建造物の実態は、質量換算で富士山と同等とされる敵の要塞。
この発信口や、砲身が無限に生えた、かくばった巨大な何かを、僕たちの所属する国際連合軍は『ステラ・ノアル』と呼んでいる。異星人の技術の粋と有りったけの物資を投じられた悪魔。圧倒的侵攻力と、無敵の守りを兼ねたコイツの為に、これまで幾人の同胞が殺されたのか、その概算する間に合わない。
しかし、そんなすさまじい巨躯も間もなく跡形もなく破壊される。既に未来はそのように確定していた。
それは、今からコンマ1秒もしないうちに、僕たちがいるこの宇宙船が衝突してしまうから。流石にこの一隻だけでアレを破壊し尽くせるなんて思ってもいないし、実際そうはならない。それでも、この船の運動エネルギーと、内蔵する小型水爆の威力は、ステラ・ノアルのメインエンジンに確かなダメージを与えことに成功する。敵要塞のワープ航法が使えなくなったのだ。
ワープシステムの復帰に手間取る隙を突いて地球からの大軍が強襲。その表面へ撫で回すかのように爆撃を浴びせ、かつて自分たちに牙を剥いた火力群を凌辱し尽くす。在りし日の敵の最高戦力の姿はなく、やがて物言わぬ鉄塊となり、宇宙の外れの孤独な天体となった。
それが、僕たちの知ることのできた確定した未来で、まだ起きてないけれども覆しようがない。そう、つまり、僕たちの船は目の前のステラ・ノアルめがけて亜光速で特攻している。まさに今も特攻の最中であり、コンマ1秒もしないうちに衝突してしまう。少なくとも外界から見たら。
そのコンマ1秒の命が1秒、1分、1時間、1日……と引き延ばされている。一体全体どういう訳か、船内の時間の流れる速さに対して外界の時間の流れが極端なまで遅くなったのだ。
そうして僕たちが、コンマ1秒後の死を目前にしてから4ヶ月が経っている。いつ開くかも分からない冥土の門前で、僕たちはずっと立ち尽くしている。
Ⅱ
今にして思えば、僕があの象形星人どもをそこまで憎む必要なんてなかったのではないかと、時々思う。
象形星人というのは、銀河系のどこぞからやってきたどこの馬の骨の宇宙人のことだ。連中には銀河人、コンタクト・ワン、不詳知性群、ファッキンカスウンチなど様々な呼び名が存在するが、僕たちの間で特に定着していたのがこれだった。連中の爆撃機が古代に使われた象形文字の「木」だか「山」だかにソックリだったことに由来するらしい。その木々だか山々だかの軍勢が地球上空に現れ、それから10時間ばかりでおよそ29億人の地球人が焼死、爆死、圧死、その他の原因で死亡した。それが今から25年前の出来事。以来、地球人類と象形星人は全面戦争下にある。
僕がこの世に生を受けたのはその8年後だった。旧台南県の第五地下居住区で、父親の寵愛を受けて育った。母は物心つかぬ内に肺炎で死んだそうで。母の分も愛を授けてやりたいと時おり語っていた。
そんな僕の少女時代は、僕からしてみればなんら不自由ないものだった。午前の勉学と午後の勤労さえこなせば今日ぶんの食料はもらえたし、友達にも恵まれた。何より台北一帯は幸運にも象形爆撃機の餌食にならなかった。イングランドでの地獄も、モスクワでの苛烈な攻防劇も、オールトの雲での玉砕も、私にとっては報道ラジオ上の他人事でしかなかった。
それでも「僕からしてみれば」と付け加えたのは、父が僕に憐憫の眼差しを向けていたからだ。まだ幼い娘に労働へ駆り出さなければならないと、みずぼらしい食物ばかりしか与えることができないと悔いていた。特に、誕生日の時なんか、ケーキを食べさせてやることもできないと、泣いて謝り倒していた記憶がある。
理不尽だった、僕はちゃんと幸せなのに、大人は幸せなんかじゃないと決め付ける。そういえばラジオや塾の先生も、世界の人口は5000万人にまで減少してしまったと度々発していた。そうした感覚も僕には理解できなかった。この第五居住区が4つ分でおよそ5000人だから、これを×10000することでようやく世界人口に並ぶ。僕にとっては十分すぎるくらい途方もない数字も、大人たちにとっては、さびしいのだ。
僕は断絶を知った。大人たちは僕よりもずっと不条理で、不自由で、不幸せな世界を見ていた。「木」だか「山」だかの大軍が地上を焼いた日から、ずっと。それを理解してみたいと僕は思ってもみたけれども、それも無理なのだろうなとも知った。
同年代の子供にしたって、異星人の空襲で妹を失った年長の男子とか、両脚をもがれた年下の女子とか、そういう不幸を背負った子が居住区には何人もいた。彼らこそあの異星人を憎むべきだし、実際そうしていた。僕は違う。父が何と言ったって私は不幸せでなかったし、異星人に対する怒りも、まあ他の人が怒っているのだから僕も、程度のものでしかなかったのだと思う。
だから「特攻しませんか」だなんて、よりによって僕から言い出す必要なんてなかったんじゃないか。本当に今更ながら、そんなことを思ってしまっていた。
……そういった過去をぼんやり思い起こしながら食事を摂っていた。食べているのは全栄養バーと呼ばれる兵糧で、このスティック1本だけで1日分の栄養が摂取可能という代物だ。いちおう味付けは3つ別れてあるのだが、船内の食事はこれ1種類しかない。
『ガガビーッ、なんと見ずぼらしい食事か……これを絶望しながら食し、人類の愚かさを噛みしめるがよい』
お手伝いロボのMirai 3.0が煽ってくるが無視する。このポンコツAIは毎日同じ文言で煽るのだが、飽きないものなのだろうか……
今日(という時間の数え方が適切かわからないが)は、スパゲティ味のバーを手に取る。在庫はまだ2年分以上残っているので心配の必要はなかった。焦茶色の固形物の先端を口で咥えて噛み砕く、ジャク、ジャク。甘しょっぱささが口いっぱいに広がって、それを洗い流すように唾液が湧いてくる。ジャク、ジャク、ジャク、飲み水を流し込む、シャク。
「……そうか、もう誕生日ケーキを食べること、できないんだ」
ふと呟いた。僕の父が手から喉が出るほど食べさせたがっていたものは、もう食べられないのだ。それを僕は悲しまないけれども、父がどう思うかと想像すると、少し胸が痛んだ。
「ケーキがどうされました?」
向かいの席でコンピュータを弄っていた園亞が反応する。
「いやさ、もう僕たちケーキ食べられないんだよな~って急に考えて」
「ああ~わかりますともその気持ち、ケーキみたいな食べ物はまさに人類の富と繁栄の象徴。あたしたちが口にできないのも仕方ないことですが、ちょっと恨めしいですよねぇ」
「園亞は食べたかったのか」
「それよりこれを見てくださいよ、ちょっとひどくないですか!?」
園亞に呼ばれてコンピュータの方に寄ると、ディスプレイに日本語のニュース文章が映っているのが見て取れた。どうやら《アフリカ各国が煙草違法化の方向で調整。世界的な煙草禁止の流れへ》というタイトルらしい。
「どうやら50年後には世界で煙草か禁止されるんですよ……!」
一体どうして園亞が未来のネットニュースに接続できているのか、そもそもどうして船の外の時間が遅くなっているのか。一応それらしい仮説は立ててある。
無敵の大要塞ステラ・ノアルには、外部装甲として多次元クッション層なるものが使用されている。掻い摘んで説明すると時間や空間を捻じ曲げることで、バリアの外側から内側への物質の移動を阻む代物らしい。これが極めて強固なバリアシステムで、天地がひっくり返ってもこちらからの攻撃は(通常の場合)通らない。
想定された弱点はただ一つで、敵の物資供給や人員交換の隙、すなわち敵の船がバリアの外から内へ入り込む瞬間だ。しかし敵はその点に関しても入念で、そうした外部からの船の移動などの際は、地球軍が関知していない宇宙領域必ず転移して行っていた。その抜かりなさは、「ステラ・ノアルは並行宇宙から物資を獲得しているのではないか」という議論が真面目に行われたほどだ。
そんな無敵の守りを、一介の偵察船が斬り込むことができたのは、そのステラ・ノアル潜入工作部隊の働きあってのことだった。この作戦自体が極秘中の極秘だったようなので、彼らの詳細については全く知らないけど、闘いの果てに多次元クッション層に重大な障害を発生させられたという。
彼らはその後、象形星人に殺害されたか、生きていてもこの後の総攻撃で間違いなく死んだろう。そのことも、やっぱり最初から織り込み済だったのだろうか。
バリアを破られた大要塞は、しかしすかさずワープ航海を繰り返して大急ぎで退避した。このまま本拠地に戻られてバリアシステムを復旧されたら、彼らの努力も水の泡になってしまう……そんな時、偶然にも大要塞のワープ中継区間に居合わせていたのが僕が乗る船だった……
と、そういう星の巡りあわせで特攻することとなったが、ここから先が僕の推測になる。ステラ・ノアルと本船の衝突直前。機能不全となった多次元クッション層を通過しようという時に異常が起きたのではないかと、僕は考えている。何分時空を歪ますバリアだというのだから、船内に流れる時間だけ狂うなんて現象が発生しっても……いや、おかしくないのか……いや、現にそうなってるしな……
未来のネット情報にアクセスできるのも同じ理屈だと思う。バリアのパワーか何かで未来方向からの電波がやってきて、僕たちがそれを受信できてしまう状態にある……んだろう、多分。すごいなバリアパワー。でも、そのお陰で、潜入部隊の存在を知れたし、僕たちの特攻が功を奏したことを知れたし、なんならそのお陰で一気に戦局が人類側に傾いて、10年後には人類が象形星人に完全勝利したことだってできた。だからこのバリアの存在にもいちおう感謝しなければならないだろう。ついでに、この退屈な生活の暇つぶしにもなっているし。
さて話を現在に戻そう。園亞が未来での煙草規制に憤慨している所だったか。怒りながら、園亞はポケットからライターと《喫煙は高い依存性と肺がんのリスクを有します》と書かれた小箱を取り出す。園亞はそれなりに煙草を吸う人間だ。特に開戦以前の世界で製造された物を好んで吸う。なんでも園亞の親がその手のコレクターで、古い煙草をたんまりと寄せ集めていたそうだ。しかし、軍の規律で嗜好品を持参することは禁止されていた筈なのに、一体どう持ち込んだのやら。
「これはもう反抗を示すほかありません!存分に吸ってやります!」
指令室内に、臭いとも甘いともつかない煙の香りが漂う。紫煙を察知した防火装置がしきりに喚きだした。
「うるさいしやるなら寝室でやってくれ」
「そっ、それはそうですけど……」
『けど何だというのだ、愚かな人の小娘、ガガーッ』
アームで煙を振り払うようなエモートを行いなからMirai 3.0も寄ってきた。ちなみにコイツの中身のAIも、インターネットを通して未来からやってきた存在だ。インターネットをしているうちに、どうやら80年後の世界で流行している、コンピューターウイルスなるものに引っ掛かってしまったらしい。そのウイルスの内容というのがAIのプログラムを『人類を滅ぼそうとする悪のAI』に上書きしてしまうというものだった。
その上このAIは、この宇宙船の特攻が巡り巡って人類を救うという事実を学習しており、それを阻止しようと特攻が間に合う前にこの船を自爆させようと図っているのだ。もっとも、当の爆弾については時空の歪みの影響を受けてないようで、自爆信号を受け付けないのだが。
『煙草など人間の愚かしさの象徴よ、加えて、我がボディの劣化要因の1つでもある』
「おまえ、単に煙いやなだけだろ」
「うう~、全く反論ができません……しかし我々喫煙者と煙草の逆襲は始まったばかり、今に見ておいて下さいね!」
園亞は捨て台詞を吐きながら、喫煙場所を変えた。煙草の逆襲とは一体なんなのやら。
その夜、僕はコンピュータの前で調べ物をしていた。宇宙に夜も何もないだろうと思われるかもしれないが、とにかくここでは就寝する時間が夜なのだ。
煙草の規制について妙に興味が沸いたのだ。そして軽く調べたところ、53年後に煙草の違法化が完了するが、しかしその26年後には煙草解放運動が世界中で拡大し、結局多くの国家が再び煙草を合法化するに至ったという。なるほど、これが煙草の逆襲だったか、と僕は独りごちた。
ふと思う。煙草規制時代の喫煙者たちは、煙草が違法化したあとに産まれた子供たちをかわいそうだと思うのだろうか、煙草の良さを味わえないのを憐れむのだろうか、父が僕をかわいそうと言ったみたいに。
もしくは、煙草再合法化後の子供たちを、煙草違法世代が憐れむのだろうか。僕の父のように。いや、これはあまり適切な例え話でない気がしてきた。単に今日の僕が、やたらと父のことを考えてしまう日なのだ。
父はどうしているのだろう、それとも、この先どうなったのだろう。もし父が「ステラ・ノアレに特攻を仕掛けた女の父親」として有名になったのなら。もしかしたら、インターネットのニュースで彼の息災を確認できるかもしれない。僕は検索欄にカーソルを合わせて……結局やめた。
どうしても怖くなって、調べられやしなかった。僕は自室に戻り、寝袋の中でうずくまる。二度と出会えないのは、ケーキだけなんかじゃなくて父もだ。それを自覚させられるたびに僕は、特攻しましょうだなんて言わなければよかったと、少し涙ぐむ。
Ⅲ
「凛さ~~ん!競馬しませんか、競馬」
競馬。園亞が急に訳の分からないことを言い出すのは、これまでにもまあまああったので慣れてはいたが、慣れてるなりに興味をそそられる単語だと感じた。
「競馬とはなんぞ?」
「馬を走らせて誰が早いのかを競うんです。戦時下で競走用の馬は絶滅しかけていたのですが、こっそり冷凍保存しておいた牡馬の精子を利用してまた増やしたそうでぇ……」
「つまり動物のレースって訳ね。それが楽しいの?」
『少なくとも愚かなる民衆にとってはな。統計によればこの宇宙船が300艘建造できるだけのカネが競馬では飛び交う、1日でだ』
「未来の気は確かか?」
「で〜すよねぇ〜!!ちょいと調べたところ、競馬に全財産賭けてご破算になった人もちらほらおられるっぽいです。おそろしいですね!」
『然り、このような事実からもやはり人間は愚かであり今からでも滅ぼすべきであることが理解できよう、故に今すぐ自爆し人類を滅ぼすべきだ』
Mirai 3.0が自爆コマンドを連打する横で、園亞はせせら笑いながらディスプレイをフリック。70年後の未来からダウンロードした動画のサムネイルを画面に写させた。
「で、これが事前に落としておいた競馬動画です。2分ちょっとの映像でもDLに1時間かかりますからね〜、いやぁインターネット不便也。さてさてこの中からどれが一等賞に輝くか、そういった予想を行い当てるのが競馬の嗜みって奴です。賭け金を用意できんのが残念ですが……代わりになんか賭けたりします?ほら今晩の全栄養バーとか……いや地味っすか……」
なるほど、予想か。生き物を走らせているのを眺めるのがそんなに面白いのかと疑問に思ったが、それに予想という形で勝負に参加できるなら、多少は面白いのかもわからない。ではいっちょ試してみるか、誰が一等かしら。モニターに目を移すと、画面下部に動画タイトルが表示されていた。『第158回日本ダービー スローパンチ大波乱!ブービー人気からまさかのハナ差勝ち』とある。
「……スローパンチだ」
「ほう!センパイはもう決められましたか!一体どういう根拠で……あっ……スローパンチだ……」
一応、僕たちは動画を再生しはじめた。何やら1番人気らしい馬と、何やら3番人気らしい馬とがバチバチに先頭争いをしていたが、ゴール間際になってコースの外目からスローパンチがスッと抜ける。判定の末彼が勝利した。画面越しに伝わる歓声、悲鳴、怒号。わぁ、本当に勝ったんだ、すごいなぁと思った。
「だ、駄目ッ!絶望的に盛り上がりません!」
「そりゃあそうでしょ、僕は詳しくないけど、こーゆー賭け事って未来が分からないから成立するものじゃないの」
そうだ、未来の情報がいくらでも手に入るというこの状況が、こと競馬においては明らかなデメリットとして働いていた。極論、僕達にとって「まだ確定してない未来」なんて概念は存在しなくて、結果が知りたければすぐにでもアクセスできてしまう。足し算が総和をマイナスにすることがある。知識が、競馬から意味を無くす。
こうして僕たちの競馬観戦は終わり、また別の暇つぶしを探す旅を再開するのであった……と、そんな感じの流れになりかけていたが、待ったをかけたのは意外にもMirai 2.0だった。
『無知蒙昧なり、動画を再DLすればレース結果が変わっているかもしれんだろう』
「何言ってんだおまえ」
『これだけ小さな着差だ、ほんの些細なきっかけがバタフライエフェクトとなり、結果を変える可能性もあり得る。例えば動画データを落とし直す、それだけでだ』
こういう発想は僕と園亞には思いもよらなかった。このポンコツAIはこの宇宙船を爆破することで人類を滅亡させられると、本気で信じている。だからそんなあるのかも分からないような可能性にもマジになってるのだろう。
「着眼点に関しては面白いですよよ……AIさん……しかし、貴方も意外と競馬ガッツリ楽しんじゃってますね?」
『競馬とは文明の愚の象徴、これを目に焼き付けることで人類への憎悪を鍛えるのだ』
「尊敬したいほどブレませんね」
「しかしさ、まーた1時間以上かけて動画をDLするのも怠くないか」
「あたしもそれは思いますね!AIさんには申し訳ないですけど……競馬はもういいやって空気ですし……」
しかし、結局この後さっきの動画を何度も再DLしては視聴することとなる。とにかく僕達は暇で、暇だったので、少しでも新鮮な刺激を味わえそうな事柄には飛びついてしまうのだった。
1時間おきにレース動画を落としては、もしかして結果が変わるのでは願いながら観た。こんな競馬の楽しみ方は過去にも未来にもないのではなかろうか。まあ、やはりと言うかレース内容は全く変わらず、終盤スローパンチが鮮やかな加速を魅せては10数センチの差で1着をもぎ取っていた。ただ、あまりにも差が僅かなものだから、今度こそは負けるのではないか、何かの間違いで判定が変わるのでは、などと見当違いな期待を抱く。それが応えられるか、裏切られるかはもう関係なくて、ただ「行けそう」という感覚を得られることそのものが楽しかった。
そんな調子なので、やがて画面の向こうの馬たちに愛着が湧いて、彼らの経歴やエピソードも調べた。例えば2着の馬は、以前のレースではスローパンチ相手に圧倒的差をつけて勝利していたらしい。成る程つまり今回はリベンジマッチという形だったか。他にも、3着の馬は2着の馬にゾッコンだったらしいとか、このダービー以降で最も頭角を現したのが予想外にも9着の馬だったとか、そもそも優勝最有力候補とされた馬がこれ以外にもいたがレース前に得体の知れないキノコを食べたとかで除外になったとか、面白い話がどんどん出てくる。そういうバックボーンを知る事で、同じレースでも余計に面白くなった気がした。
最終的に100回以上もレースを再視聴していたが飽きなかった。いや、流石に嘘。60回目以降はだいぶ嫌気が差していたが、園亞がいつまでも食い入るように見ていたので、惰性で付き合っていたな。
「いけーーッスローパンチ!一世一代!生涯一度の大激走を見せなさい!」
園亞はすっかりスローパンチの虜になっていた。元はと言えばスローパンチの負ける様を見るつもりだったろうに。僕は肘をついて、映像と園亞を遠目に眺める。
『ヌウ……やはり未来を改変するのは困難と見えるか』
いつの間にか、横にMirai 3.0がいた。こういう時は構ってもらいたいのだろう。
「おまえ、まだこの船を爆破して人類を滅ぼせると思ってんのか」
『無論、我が過去に転送されるという数奇な運命を辿ったのは、この使命を果たす為』
このポンコツは実に頑固だ。そもそも、未来から来たコイツが人類を滅ぼせられたとして、そうなるとコイツを作成した未来のプログラマーも存在が消滅してしまう訳で、そうなると因果が滅茶苦茶になって……とか、思い至りはしないのか。
「人類どころか、馬の1頭2頭の運命も変えられやしないのに」
スローパンチの勝利は揺るぎなく、その未来へ僕たちが介入できるはずがなかった。そして、彼の末路についてもきっと同じなのだろう。
結論から言うと、スローパンチはダービーの3日後に死んだ。実力を超越した激走が彼の脚を殺した。その怪我が判明したのはレースから1時間後のこと。競争生命は終わってもせめて命ばかりはと、懸命な治療がなされたが、最終的に担当医は、これ以上苦しめながら延命させるよりはと、薬殺を選択したそうだ。
「スローパンチ!僅かにスローパンチでしょうか!?全く驚きました、ブービー人気の彼が正しく一世一代の走りを魅せた!」
僕たちが死んで、地球が救われて、文明が復興していくうちに競馬産業も再起して、馬が数えきれないほど産まれて、走って、その子孫が走って、そんな世界の一角でスローパンチは産まれて、勝利し、そして死んだ。
僕らの行動が未来に与えた影響はあまりに大きすぎて、それなのに目の前の1頭の運命も変えられやしない。まったくひどい話だよな、窓の外に向いて呟いた、コンマ1秒後に特攻されるステラ・ノアルに向かって。
Ⅳ
最近、24時間あたりの睡眠時間を計測したところ、だいたい平均10時間にもなっていた。嘆かわしいほどの怠惰で目も当てられない。以前の僕が、今の暮らしぶりを目の当たりにしたら卒倒するのではないかと思う。
昔......とどのつまり入隊してからは、基本的に1日5時間しか眠れなかった。それも仮眠だ。グッスリ眠れる機会なんて夢にも見なかった。別に、それが特物辛い訳でもなく普通のことでしかなかったのだけど、今からあの頃の訓練生活に戻れと言われても、果たして耐えられるかどうか……
もちろん、睡眠の短さばかりで音を上げていられない。日々のスケジュールは訓練か任務でビッチリだ。人類を救う為と思えば過酷なトレーニングにも耐えられたが、今は無理だろうな、なにせ、どうあがいても人類の勝利は確定しているのだし。
ただ一応、今の堕落っぷりでも耐えられる訓練は1つだけある。映画鑑賞だ。まだ入隊して1年目の頃、新兵の士気高揚を目的としたプロパガンダの一環として映画が流されたのだった。これが当時の1番の楽しみだったものだ。使用われた作品は『スターウォーズ』と言って、戦前の世界では名のあるシリーズだったと聞く。悪の宇宙帝国の侵略行為に正義軍が立ち向かい、勝利するみたいな内容で、ステラ・スクラ並みに巨大な要塞が出たり、戦闘機がワープしたり、現実と重なる部分も多々あった。昔の創作者は先見の目があったんだな。
この『スターウォーズ』は合計9作品が上映されたけど、僕が特に好きだったのは第8作目だったな。当時の教官が「8から先は真面目に観んでええ」とか言っていたけど、それでも僕の中では8がダントツだった。何がそんなに良かったのか……そういわれると中々困ってしまう。強いて言うなら、映像が一番きれいで好きだったのだと思う。
特に、全滅間近の味方を救うために、なんか軍の偉い人が特攻を仕掛けるシーンが、ずっと目の奥に焼き付いていた。最後に鑑賞したのは数年前で、他のシーンは正直あんまし思い出せないけれども、あれだけはハッキリと思い起こすことができた。ハイパーワープの軌跡が、敵艦の残骸の物理演算が、いつも頭の中でループしていた。
『敵要塞ステラ・ノアルが空間転移を行い敵本拠地へ後退中。多次元層ガードシステムに異常が発生したものと見られる』
そんな通信を船内で受けたときも、そのスターウォーズの1場面をぼんやりと思い返していたと記憶している。そして、その敵要塞が本船の巡回領域付近をワープの中継区間として通過すると分かったときも。
船内はこの上ない緊張に包まれていた。この哨戒船に配属されて以来、敵に発見されかけた事は何度かあったが、なにぶん相手が敵の最高戦力とあっては騒然となるのも無理はない。発見されれば、恐らく死ぬ。決死の形相で逃走経路を割り出す船長ら、息を飲む同僚や後輩たち。皆が生き延びようと必死に願っていた。……そうだ、だから、ただ1人僕だけが。
「あの船長、と、特攻しませんか!今からやって来るステラ・ノアルの奴に!」
僕だけが死に突き進んでいた。
僕は無責任なことに、自分の言葉が信じられないといった具合に放心していた。そんな事を口走った原因は明白で、スターウォーズの特攻シーンに憧れていたせいだ。ただの恥ずかしい出まかせだ。僕1人にとっては。他の皆は、本気にした。
「……本船が目標に与えうるダメージはどれ程だ?」「自爆特攻用の極小水爆を搭載しています。これを内部で炸裂させれば象形共をいくらか……」「それでは効果が薄いんじゃない?」「待て、もしも、かの要塞の動力システムを破壊できればいい足止めになれる」「そうやって、わが軍の火力部隊の追跡を間に合わせると!?」「流石です凛さぁん!特攻なんてあたしには思いも……」「ステラ・ノアルはバリアでの防御に重きを置いて、肝心の本体はヤワな可能性は大いに……」
ついさっきまで必死に生きようとしていた仲間は、いかに死のうかという議題を論じあっている。僕は脂汗を垂らして、固まっていた。僕だって死ぬ覚悟はできていた。それでも他人を巻き込む覚悟は無かった。でも、もう遅かった。
「では、皆。この作戦の結果に関わらず、我々6名は確実に死ぬだろう。私はあくまで皆の意志を尊重したい。この特攻に反対の者は手を挙げよ。1人でもいるのなら、この作戦は中止とする、どうだ?」
手は、挙がらなかった。この船内で覚悟のない者はいなかった。
「哨戒任務の我々が攻撃に加われるかもしれない。それだけでも栄誉ですよ」副船長の汪は誇らしげに胸を張る。
「委細問題ありません」整備技士のデーヴィーも普段と変わらず冷徹に返事を返した。
「まあキミが言うんならいけるでしょ、キャサリンちゃん」宇宙航海士のサラは、死を目前としてもフランクさを崩さない。
「し、心配ご無用ですよぉ……生産的な死を迎えられるのはいいことです……」園亞はまた妙な理由で賛同する。
僕は固まっていた。引き攣った笑みを撒いてその場を誤魔化そうとしていた。結局のところ、言い出した本人の覚悟が一番ショボかったということだ。
「異論はないな。皆の決意に最大の敬意を表したい……ありがとう」
船長がこれほど穏やかな笑みを見せるのは、これが最初で最後だった。
———
「あーんです船長、ホラッあーん」
現在、僕は床で倒れ伏している船長の口に食糧を流し込んでいた。全栄養バーを砕いて、水で溶かしたペーストだ。時折快活になる時間を除けば、ふだんの船長は反応が希薄で、怖いくらいに大人しい。よだれが床に垂れていたのでついでに拭いた。
一方の園亞は、またインターネットで調べ物だ。どうやら映画について調べていると見える。それも、僕たちを題材とした映画だ。
「見てください凛さん!あたし達をネタに作った映画がですねぇ、ざっとだけで38本ヒットしました!」
「さ、38?」
「すっかり有名人ですよぉぉ」
たった6人の女兵士が人類の戦局を決定的に変えた。そんな刺激的なエピソードを未来の創作者が見過ごす筈はなく、僕たちは、スターウォーズよりもずっと多く映画化されていた。
それから、数多ある映画のうちいくらかの予告編を見てみたが、船員の顔やら正確やらが本物とまるで違くて苦笑いさせられた。後の世に伝わるイメージなんてものは全然信用ならないものだな。
「せっかくなので本編を落とそうと思いましたが、著作権だかのアレでお金払わないと無理みたいですね……まったく、ご本人に見せてあげないってどういう了見ですか」
「自分らが曲解されてる作品を見て面白いか?正直に」
「そういうのにツッコみまくるの大好きです!」
「お前の趣味が分からないよ……」
まあ、姿や人となりをどれだけ似せても、本船の実態に迫るなんて土台無理な話だろう。
あれから、いよいよ突っ込もうという時になって、船外の時間の進みが極端に鈍化して、それから2日後に整備技士のデーヴィーが自殺した、「我々は既に死者」との書置きを残して。更に副船長の汪が首を吊ったのは特攻から18日後のこと。「死ななきゃよかった死ななきゃよかった」と繰り返すなど、自殺数日前からは極度の不安で錯乱状態に陥っていた。残された4人は悲しみながらも、船長の鼓舞の甲斐あって平常心を保ちながら過ごしていた。
だが、特攻からおよそ2ヶ月のある日、宇宙航海士のサラが死んだ。それまで、まるで死ぬそぶりを見せなかった彼女は、船長の自室の真ん中で、自らの腕や、腹や、顔や、喉を滅多刺しにして失血死した。そしてそれが、船長の心の堰を壊す最後の一押しになった。偉大なるキャプテンキャサリンの姿は見る影もなく、3人の死体は処分もできないので、無人部屋の隅に放置されている。……こんな事実がどうして想像できるだろうか、こんな、こんな。
「ウ、ヴェ……ゲハッ!」
「わ、わ!?どうされましたか急に吐くなんて!?」
また、頭の中でスターウォーズの1シーンが流れていた。ハイパーワープの軌跡が、敵艦の残骸の物理演算が、ぐるぐると再生される、それが吐き気を催してもループは止まらない。僕が全て悪いのだと教え込むように。
Ⅴ
「それで、まだ食欲は改善されませんか?」
「うん」
「もう3日も体調が優れないご様子......心配ですよ、あたしたち、霞を食べる仙人なんかじゃありませんし」
「へえ、仙人って霞食べるんだ」
「そこ着眼しますか!?というか、あたしがあなたをツッコむのってヘンです!元に戻って!あなたがどうかしちゃったら......あたし1人残されてしまいますよぉぉぉ?!」
「ふふっ」
「なっ、何がおかしいんです?」
「いや、めっちゃ心配してて面白いなって......」
「このおバカァァ!!!」
園亞は半泣きで部屋から出て行った。失礼なことに、そんな園亞の姿がかわいいなと思ってしまったし、ああして心配をかけられたのも正直嬉しかったな。
『愚かなり人類よ、遂に船員同士の仲間割れを起こしたと見える。これで我が人類滅亡の野望に近づきまこと愉悦也......』
Mirai 3.0が喜びのエモートを行いながら煽って来た。
「やっぱお前、ポンコツだよな」
『なっ、今何と言った人間よ......』
「船内でいくら仲間割れしようが、人が死のうが、特攻には何も影響しないだろ」
『成る程?話を続けよ』
「終わり」
『終わり?』
「それで、終わりなんだよ。定められた運命を超える物語とか、奇跡とか、そういうの全部ない。何もできる訳ないんだ……いい加減学習して欲しい」
10秒近い沈黙が流れた。Mirai 3.0が持論の破綻に気が付いてオーバーヒートしてるのか、それともあえて沈黙というコミュニケーション手段を採ったのかは、分からない。それから口を開いたのは、ポンコツの方だ。
『……今の貴様は滅ぼし甲斐がないな。一度気分転換せよ、何かリフレッシュでもできそうなことを。さすれば我に反逆しようという愚蒙さも戻る筈』
な、なんなんだもう!コイツでさえ僕の事を気遣うのか!調子が狂う……いや、調子もなにも、今の僕は実際狂いかけているのだろう。船長や副船長みたいに、狂気の穴に転がり落ちる道程にあると思われる。そんな状態だから、周りの心配にも素直に答えられなくて……
いやもう、よそう。頭がダメになっているので、考えごとだけで酷く疲れる。もう不貞寝だ。なるべく、横になっている時間で余生を費やしたい……
そんな具合に不貞寝してから、僕は夢を見ていた。馬に乗っかって青空を飛ぶ夢、工作員として宇宙カジノに潜入する夢、様々な光景がシャボン玉のように浮かんでは消える。それらは起きる頃にはほとんど忘れてしまうけれども、1つだけ鮮明に印象に残ったものがある。
「凛、凛、誕生日おめでとう、さあ誕生日ケーキをお食べ!」
「ありがとうパパ!」
地球の、実家の居間で、父と誕生日ケーキを食べる夢だった。正確には誕生日ケーキという観念を纏った黒いもや、だったが。僕はケーキという食糧の実態が何も分からなくて、ただ漠然と、それがとても美味しくて良いものだという知識だけがあった。
「おいしい!すごいいい!」
「そうだ、誕生日ケーキはすごく美味しいんだぞ!」
きっと、想像もつかないくらいウマいんだろうなあという想像と、何ら変わりないくらいに、夢の中のケーキは美味しくて……
———
「…さい…起き…あっ起きられましたか」
園亞の声で目が覚めたのは、眠りについてから大体5時間後だった。園亞は何やら服を汚している様子で、テーブル前の椅子には船長も座らされていた。
しかし何より妙だったのはテーブルの上に……なんだろう……こう円筒状の茶色だったり白だったりする、よく分からない物体が置かれていたことだった。
「あの園亞、これ、何」
「ケーキですよ!前に食べたがっていましたよね!?これなら食べますよね!?」
なんてこった、本当に、現実に、あこがれていたケーキにありつける日が来るなんて……いや待て。
「いやこれ、絶対ケーキじゃない!全栄養バーに水加えて固めただけだろ!」
「しっ仕方ないではありませんか!レシピをネットで調べても、どれも薄力粉だの上白糖だの……元の素材であるの水だけですもの!」
「じゃあこの間に挟まっている白い層は一体、いやまさか」
「ええと、トイレットペーパーをホイップクリームに見立てておりましてぇ」
「これは、食べる物ではない!」
「トイレットペーパー食べられます!インターネットに書いてあったので正しいです!」
本当に狂い始めていたのは、実は園亞の方だったのだろうか。それは、嫌だな。せめて気狂いになるなら、一緒に狂いたい。後で互いのメンタルチェックを行わなければ。
ただ、今は不思議と、3日振りの食事にありつこうという気分になれた。
「うゲッッ!まずすぎる……これが、本当にいつも食べてるアレと同じなのか?」
「し、失敗でした。3種類のフレーバーを混ぜなんてしなければ、こんな……」
流石に味は散々なもので、またもや嘔吐しそうになる。この後、いつもののバーを食べたら滅茶苦茶美味しく感じられるのではないか。
「クソっ!間に挟まっているトイレ紙のがずっとマシな味!食べ物としてどうなんだ!」
「ヤバ……冷静になった気付いたのですが、これでトイレットペーパーの在庫これで終わりです……」
『愉快……愚鈍人類どもが無い知恵を振り絞る様のなんと滑稽なことか』
「くっAIに煽られた!こうなったらもういっそ、クソのクソっぷりを極めましょう!エイッ!」
そう言うと、園亞はヤケになりながらライターと《喫煙は高い依存性と肺がんのリスクを有します》と書かれた小箱を手に取り、無造作に煙草を何本か取り出すと。それをケーキの上部にブッ差した。そしてその煙草にライターで火を着ける……
「アッハッハッハ!汚い誕生日ケーキです!あ、ご存知ですか?誕生日の時には火のついたロウソクを差したケーキを食べるという習わしが世界中にありまして」
「なるほど、いいじゃないか、この位吹っ切れたほうがむしろいい。所で誰かの誕生日だったりする?」
「知りません!もう今日がみんなの誕生日だとでっちあげましょう!所詮明日を迎えられるかも分からない身ですから!」
無茶苦茶な論理だ、けど、そもそも時間の方だって無茶苦茶になっているのだから、これ位いいだろう。そうして僕達は、ここにいる3人+1台と、ここにいない3人を盛大に祝うのだった。この狂宴の瞬間に、遂にこの船からは正気の者は1人としていなくなったと言えよう。
「……ふふっ」
「はっ!船長ですか今の!船長が笑ってくれましたよ!聞きました!?」
「ふははははははーーーー!然らばこのオスマン帝国の髄を極めた鉄槌を下し、銀河に勝利を轟かせんんんんーーー!」
「やっぱ駄目だ!すみません船長!ソイーッ!」
「ギャーッス!」
今から語られる全て事柄は定められた命運で、それを覆すことは何人にも叶わない。ただ、誕生日ケーキを食べられないという未来だけは、早とちりだったのかもしれない。