写真はただの道具なんだもの|宇田川直寛
写真への信仰、正しさに疑問を持ち続ける宇田川直寛が発見した、芸術と日常の間にある「空白」について。
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写真というものを指す内容が、空白だと思って。普段使う「写真」と、作家や評論家が使う「写真」と、言葉の意味がかなり違うな、という。
ーー以前僕から「写真について書いた文章ってあるんですか?」と宇田川さんに聞いたことが、自分のなかにある写真論について考えるきっかけになったと言ってましたよね。そこまで深い意図があって投げかけた質問ではなかったのですが、責任を感じたというか、そうだったのかと思いました。
いやいや、自分にとってそこは盲点で、あんまり見てこなかったところでした。
ーーそのとき、写真論は「空白」と言っていて、どういうことだろう?と思ったんですよね。そのあたりを最近の個展『道具』(flotsambooks)(*1)の話と併せて聞きたいんです。
空白というのは、俺自身がそこまで考えが及んでいないというのと、見ようとすると論自体がぽっかり穴が空いているように感じるからで……。
ーー穴が空いているのは、誰もがアクセスできる原型のようなものがないってことですか?
写真というものを指す内容が、空白だと思って。普段使う「写真」と、作家や評論家が使う「写真」と、言葉の意味がかなり違うな、という。そうなったときに何を写真と言っているのか、そこにはかなり空白な部分が多い気がします。だから自分は、写真論というものを持っていないんだろう、と。
ここからどういう道筋で話すか、さっきひらめいたんですけど忘れちゃったので、とりあえず道具の話をします。そもそも道具自体がすごく好きなんですよ。道具を使いたい。なんで使うのが好きなのかを考えると、わりとよくある答えになってしまっていまいちしっくり来てないんですけど、達成感だったり、使いこなせている身体感覚の享受だったり、そういうこと。でももうちょっと違うんじゃないか、という気もしている……。
それで今回の展示では、空白が大きいのならば、道具の使い方からであれば写真について何か言えることがあるんじゃないかなって思ったんですよ。例えば、釘を叩くと、叩いたものがハンマーになる、みたいな。そういうアプローチで写真論を話せるだろう、なぜならば道具が好きだからっていう。
道具をどのように使うのか、もしくは使い方を変えることで、写真という言葉をどのように形作るのか。そこで出来上がったものが、空白の写真のどこかを照らすようになるんじゃないかって思ったんです。
ーー道具を使うことが、ある写真の領域を浮かび上がらせる。
論からではなく、活動からはじめてみる。こう言ってしまうと、当たり前の話ですが、例えば「額」を使うときに、自分は何を受け入れているのか、などを道具の立場から考えてみる。だから道具には、本や額や展示、プリント、エディションといったものも入ってくるだろうと思って(*2)。こういった作品を売って糧を得て制作を続ける作家活動上での、行為する様、使用する様も、道具のパースペクティブから見てみる。
この話の念頭にあるのは、ジャック・デリダが『絵画における真理』を書いたときの「パレルゴン」(*3)。「額」というものを写真家が受け入れて壁にかけた時に、何を受け入れている状況になるのか。前提としていることがあるじゃないですか。絵画的なものであったり、美術的なものであったり、マーケット的なものであったり。販売して作家が収入を得て生活と活動をするっていう、自分自身が生きていくことも関わってきますよね。なぜエディションをつくるのか、サイズによって値段を分けた方がいいのか。作品の成立のさせ方に影響する形で、何を受け入れているのか。そのとき作品はどう変化したか、どこから生きていくための方法になったか。
で、ここで受け入れている慣習は、否定はできないし、俺はそこと戦うとか対立するっていうスタンスではなくて、許してもらいながら話をしたいって感じなんですよね。遠回りに見えるんですけど、一人の作家として生きていきたい、何かをつくる人間として生活する糧を得たいとなったときに、制度そのものを否定することはできない。なぜならすでにそのなかに入ってしまって了解しているから。作品を買ってくれた人が現実にいるし、その人のことは否定できない。また買ってほしい。展示させてもらえる場所がある。また展示がしたい。そういう関係性をもう受け入れてます。
だからあくまで全部ひっくり返すような行いはできない。なので、まずは慣習に頭を下げる(笑)。そのときに脇を誤魔化して通らせてもらう方法が必要だなって思うんです。
ーー展示されていたのは、額縁らしい額縁ではなかったですよね。
あくまで慣習に従っているように見えるけれど、そのなかで実は別のルールでやっていて、すり抜けさせてもらうっていうのかな。例えばサッカーをやっているように見えて、実は別のルールで同時にゲームをしている。いつの間にかその別のゲームが独立して新しいゲームとして確立できたらいいなと思って。そのプレイヤーが増えれば増えるほど、写真が独立したゲームとして走っていく。それがゆくゆくは写真論になるんじゃないか、と。だからまずは道具の使用からはじめようと思ったんですよね。
ーーはじめからはっきりとした形があるわけではなくて、宇田川さん以外の人が参加しはじめると形作られていく。そこでできあがった写真論は、美術作品なんですか?
難しいですね。すぐに、うんとは言えるんですよ。作品になれば、売って食っていけるから。理想としては、写真という国の独立。だけど、とてもとてもそんなものではないから……。まずは自分たちの方言で語り出して、自治区として認められて、という感じ。
ーー行政みたいに堅実。
いきなり革命を起こすと、恩恵を受けたものをそのまま盗んでいくことになるし、そんなに強くはないんですよね……。
ーー革命起こすぞ!というよりは……。
姿勢としては、頭を下げながら革命する、みたいな。
*1|『道具』2023年1月20日(金)~1月29日(日)flotsambooksにて開催された個展。
*2|展示された作品は「額縁」の様々なバリエーションとして制作されたもの。誰でも低予算ですぐにつくれるという条件が課されている。
*3|「作品の外、付随的なもの、二次的なもの」など非本質的な付随物を意味する。ジャック・デリダ『絵画における真理(上・下)』(法政大学出版局、1997)。
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ごまかされているというか、はぐらかされているというか、騙されている気がするんですよね。道具を使うことでかなり話がややこしくなっている。
ーー何が作品としての写真を成り立たせているか、という制度や構造の部分について考えていることがわかりました。そのあたりを問題とするのはなぜ?
正しくなりたいのに、正しいものがわからないから(*4)。
ーー宇田川さんの周りを見ていて、正しくないと感じることはあるんですか?
信仰が強いと感じてます。その信仰も、何かへの正しさから行われているじゃないですか。先人が築いてきたものへのリスペクトはあるんですけど、それを正しさにセットしていいのかと思っています。俺自身が正しいというわけではないのですが。
ーーそれってずっと前から感じていたこと?
思い返せば、ずっとですね。最近ちゃんと整理して話すようになったというか。もともと感じているのは昔から。
ーーフィルムからデジタルに変わったような状況の変化は関係してますか?
そこはやっぱりただの道具としてしか捉えてないですね(*5)。カメラは家電だものな、と思ってます。家電を使ってできた物を勝手に作品だと言ってるんだよな、という。いい加減な土台のうえで成り立っている分野だから、フィルムからデジタルに変わったことが写真の本質的な何かを変えたかと言ったら違う気がする。
ーー「信仰が強い」というのは、誰が何にたいしてやっているイメージなんだろう……。
あー、難しいな。こんなの写真じゃないよって言っているときに基準になっている価値観だったり。ファインプリントやマッティングや額装、ホコリとるぞ、と美の観念へ向かって写真を扱っているような感じとか。コンテンポラリーアートにこれだけ近づけたぞ、という価値観。あとは「想いよ、写れ!」とか「なんかあるだろ?ここに」みたいな価値観。信じすぎている気がする。
ーーなるほど、結構広いですね。宇田川さんの視点からだと、道具によってそう思わされているだけだってことなんですかね。
そんな感じがする。ごまかされているというか、はぐらかされているというか、騙されている気がするんですよね。カメラを使うことでかなり話がややこしくなっている。あの道具がなかったら、こんなに誤解することはないんじゃないかという気がして。だって、ドライヤーとか炊飯器でそんな誤解しないじゃん、と思って。電子レンジャーとかいないですよね。カメラにやられすぎている部分があると思います。
ーーそういう正しさへの行きすぎた信仰から離れたい?
でもそれでいて自分も強烈に信じたいんですよね。そこがまた面白い。例えば、ターンテーブルを2個並べて、これで永遠に曲を繋げられるじゃないか!って気づいたのは、家電のいい利用の仕方だと思うんですよ。それは相当な発明で、あの感じに近いことを写真はカメラを使ってできるはずです。
ーー今ってそういう変化の渦中にある気もします。
だんだんそうなってきてる気はしますけど、もっともっと進んでもいいと思います。カメラがただの道具になったとき、意味や役割から解放されて、ただカシャっと押す何かになったときにようやくはじまる気がします。そこからDJタイムがはじまったら、かなり夢がある。
*4|宇田川「ここは今のところ、そういう答え方にしているだけかもしれません。どれだけ、どういう理由で、正しさに固執しているのか?本当にそうか?はずっと疑問です」
*5|宇田川「最近、フィルムからデジタルに移行したことによる写真の違い、というよりは道具として違いがあると思った方が面白いのではないかと思って。理由は二つあります。一つ目は、『写真は太陽に属する』もので、フィルムは星の光の痕跡を残しているのだという感動が個人的にあるから。二つ目は、フィルムは今まで重視されてきた役割をほとんど終えているから、私的な使用が進み、自由で楽しいはずだから」
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いい写真を撮ったなー、と自分では思っているんですよ。でも、それはそれ!みたいな。撮って出てきたものをあんまり写真だと思っていない。
ーー「パレルゴン」的な外側について話してきましたが、中身の部分についてはどう考えてますか? 展示では写真らしい写真はなかったですよね。
あの展示における写真のイメージの立ち位置に疑問はありますよね。やっぱり自分の興味対象は構造的なものを扱っていくことなんです。なのでこの写真を見てください、とはなりづらい。ただ、毎日のように写真は撮ってるんですよ。なので、俺が撮ってるこれと、構造として扱うこれは、なんだろうって分離は起きてる。
ーー別のものになってしまう。
例えば、最近やっている共同のプロジェクトで、どっかに行って撮影するというのをやっているのですが、それが作品集になったときには、俺の写真って使われない予定なんです。俺自身も、どこかへ行って写真を撮ることと、作品を作ることは、全然別の考えごとをしている感じです。直接結びつける方法がよくわからない。でも撮影するときは、こう撮ったらいいだろうなとか、これいい風景だなとか、その場で写真撮影自体を享受しています。
ーー撮りに行くことはやっぱり大事なんですか?
大事です。撮っておけば安心ですね。撮ったら撮りっぱなしでほとんど見直さないことが多い。カメラを使ってる感じ、レンズの使い分けとか、明るさ、ピント、構図の調整とか、そういう快楽もすごく大きいです。撮ったものをなんとかしようっていうのは、あんまり大事じゃないかも。いい写真撮ったなー、と自分では思っているんですよ。でもそれはそれ!みたいな。撮って出てきたものをあんまり写真だと思っていない。じゃあ、作家の言う写真をやる場合にはどうしたらいいかってことを、撮影した写真とは別にやろうとしている気がする。
ーー作家という枠組みがあるから、そうなる?
そうですね。それは俺自身の作家性の問題な気もしますね。
ーー例えば、iPhoneで撮るカジュアルな写真と、ちゃんとしたカメラで撮るプロフェッショナルな写真って区別はあるじゃないですか。そういう違いとは別のものですか?
違うような気がします。撮られた写真が違うというより、撮る人間の態度や振る舞い、カメラが違います。大袈裟さが違う。
ーー大袈裟さ。
自分は街なかでわざとカメラを持ち歩いているのですが、そういう大袈裟な態度は部外者として興味本位でここにいます、という表明がすごい楽です。
ーーそのときに何をどう撮るかってあんまり関係ない?
なんなら撮ってなくてもいいし、道具があればいい。水戸黄門の印籠のなかに何が入ってるかは関係ない(笑)。
ーー部外者でいることは楽しいんですか?
楽しいです。無責任さに呑気さを添えた観光客でありたい。だからカメラがないと不安になります。ここにいる自分の立場がなくなるし、やることもなくなる。報道の記者は伝えるための道具としてカメラを持っていますが、俺は役割のないカメラを持っているから観光客になれるんです。普段からカメラバッグを持ってカメラをぶら下げているんですけど、そういうコスプレが好きで、なんとかして他者であろうとする感じ。
ーー他者というのは、社会にとっての他者?
社会とかその場にとってとか。よそものの無責任さを持っていたい。かと言って疎外はされたくない。「ちょろっと撮ったら帰りますんで」って感じ。それは許してもらいたい。
ーー宇田川さんは、たびたび作品をつくる正当性だったり、作家でいることの正当性だったりについて話をしていますよね。その場にいられる正当性がやっぱり大事?
できるだけカメラマンっぽい格好をした方が、写真を撮る正当性があるんじゃないかなって。
ーー制度的な慣習に自分を馴染ませる。本当の自分があるんだけどねってことでもありますか?
本当の自分を隠したいとかというよりも、むしろないからこそやっているかもしれない。擬態は誰の視点によって成し遂げられるのかという話を聞いたことがあります。羽を広げると模様が目みたいに見える蝶がいて、それって自分の姿を見られないはずなのにどうやってその形になったのか、あとその羽についてる目、誰の目だよ、という。そういう感じが自分のなかにある。俺は誰の眼差しにとって正しいをふりしているのだろうかっていう。精神分析的に言えば大文字の他者(*7)なんでしょうけど。あの、だから服装が何かの業者っぽいっていうものすごく大事で。
ーー匿名感あります。
何かの作業があるからいるんだろうっていう。その擬態感は結構大事(笑)。
ーー無意識は症状が出てはじめて認識されるものですけど、擬態を続けることで誰かが反応してくれることを待っている?
俺はカメラマンの擬態をしてうろうろしているだけで、誰かが仕事を見つけてくれるはずなんですよ。あくまで俺からじゃない(笑)。
ーーその仕事が、何か別の写真になるのではないか、という仮定は一応ある?
あんまりないかもしれない。本質的な部分は空白のまま残しておきたいんですよね。共通の正しい写真を撮るというのには興味がなくて、正しいふりが勝手に共感されて正しい感じが変化したら面白いとは思っています。
ーー本質はなく、真似だけがある。雑にまとめてしまうと、構築主義的な考え方かもしれない。
そうかもしれないです。もともとは執拗に真実とか本質を求める性格なのですが、求めすぎちゃって自分に説明がつかなくなって、そういう考え方だったらとりあえず納得がいくと思って。とはいえ、今も求めているんですけどね。
ーーこれまで擬態を続けてきて、やっぱり動かしがたい本質のようなものはありましたか?
そもそも本質っぽいものがないと、フリはできないんですよね。それを中心に回っていかないと困る。フリをすることで、わからないものを照らし返す、みたいなことでもあるんですよね。何か基準がないとギャグができない。
ーー宇田川さんのギャグって伝わりづらいのかなって。擬態すると一見普通に見えます。
完全擬態だとやっぱりダメなんですよね(笑)。自分のなかではギャグとわかるぐらいがいいなと思ってるんですけど。それにギャグをやりながら同時に本当であってほしいとも思ってる。とりあえず今はギャグでいいです、と思ってます。作家一人の面白みとしてやっているし、同時に変わってほしいとも真面目に思ってる。コロッケが物真似するじゃないですか。本人と仲良くなって一緒のディナーショーに出たりしてて、あの感じがすごいいいです。
ーー本人公認です、という。
それで物真似の方が周知されていく。過剰な物真似は本人でもコロッケ自身でもない「コロッケ」になるんですよね。さらにコロッケが「コロッケ」を何にも拠らないで独立させて、完結した「コロッケ」をしたらすごく面白いと思います。
ーー面白いというより怖いかもしれないな(笑)。それかただの変顔に見えるんじゃないですか?
そうかもしれない(笑)。
*7|ラカンによって提示された概念。幼児にとっての全能の母のように、主体を超えた第三者的な存在が大文字の他者。言語や社会のルールといった法を制定し、主体を規定する存在。対して小文字の他者は、人が日常生活のなかで出会う他人で、自我と同じ水準にある存在(『人はみな妄想する』松本卓也)。
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本当かな?っていうのがずっとついてまわる。それを言い出すと、俺が作品をつくっていいの?まで戻っちゃうから、それをぐるぐるさせるしかないかな。
ーー宇田川さんは、ツナ缶とかホースとか身の回りの日用品をよく撮ってますよね。それは道具という点で繋がってきますか?
そうですね、たぶん。身の回りのものの役割を外して、私的な使用をするのが好きなんですよね。
ーーそれは撮るという前提があるからやっていること?
制作があるからできるって感じですね。カメラも私的に使用して、それを作品とか写真と言っている感じ。その扱いと同じですね。
ーー道具の私的な使用をすることで、何を避けようとしているんですか?
わからないんですけど、はっきりとした使用目的を持つことを避けているのかな。私的言語ってあると思うんですけど、道具も私的な使用をしなければいけない。何かの代用品として使ったり、バランスを取ってみました、みたいな言葉で表せるような使用の仕方をしてはいけない。
ーーモノとして存在させることが重要なのか、それとも、逸脱すること自体が重要?
それでも使用できそうだなということが一番大事。何かに使用できそう、というか。
ーーまったく別の道具として。
でも、目的ははっきりしていない。とにかく使ってみたいと思うかどうかですね。ちょっとこの話からは離れるけど、日常性というのも面白くて、どんな状況でもついてまわってしまう生活感がすごく好き。私的な使用のなかでも、生活というものが追いついてやってきてしまう感じ。そこがすごく大事なポイント。生きてる感じというか、そこに人がちゃんといるぞ!みたいな。
以前、1週間ほど、普段の部屋でやっていることを、その場所でやり続けるという公開滞在制作をやったんですよ。展示作品はなく、作ろうとし続けるという。そのなかで一番好きだったスポットが、シンクの横のガスコンロを置く台。冷蔵庫がないから夏でも腐らなそうな食べ物を選んで置いていたんですが、そこがすごく生活なんですね。制作をして空間を展示として格好つけていくのに、どうしようもなく生活が追いついてくる感じがいい(笑)。その切って離せなさは、切るべきではないと思って。
ーー言い換えると、リアルであるべき、とか?
リアルですけど、ありのままである必要はない。作品を作っている人間の立場がわかるようにする。そこで飯を食って排泄している実体があることは、切り離されてはいけないんじゃないか、と。私的な使用をする人間の立場表明みたいなものですかね。自分がいる範囲のなかでやってみる。だから日用品を使うことが多いですね。車で撮影に出かけて何日か経つと、車の中にゴミが溜まっていくんですよ。飲んだ缶とか。ああいう生活が追いかけてくる感じは、魅力的なんですよね。
ーーそれは生活の記録物みたいな。
その成れの果てで、目的についてまわってくるもの。撮影に行っても、ホテルにいるときに自分の鞄のなかに入ってるものだったり、出先のコンビニで買ったりしたものだったりの方が、興味がある。そっちの方が面白い。
ーー私的な使用ができそうだ、と思うから面白い?
そうですね。ある目的のために何かをしているにもかかわらず、べったりとついてくるもの、それの目的をさらに外してあげる。それはカメラと写真に与えられた目的とはまったくかけ離れたところで、作家として何かをしている、ということでもあるんですけど。
ーー日用品を私的な使用をして、その後に撮るというのは、単に作品として成立させるため?スカルプチャーとしては見せないんですか?
そこは自分もなんでだろうと思っていて。モノとして置いておくだけでいいじゃんとも思うんですけど、撮った方が面白いんですよね。より切り離される気がして。モノを置くって結構強くて、写真に撮った方が弱くなる。写真に撮ることで何になってるんだろう……。
ーー何でしょうね。道具としては使えなくなるわけじゃないですか。
たぶん何か作業してるときの方がやっぱり楽しくて、それが終わったときに写真を撮る。そういう意味で記録っぽいんですけど、やっぱり写真に撮って出てきた表象の方が面白い。
ーー別の私的な使用を喚起する表象だからですか?
んー、その前に表象自体が何になっているんだろう、という。さらに意味のないものになっている気はするんですよね。私的な使用をすることでモノから離れた何かになって、写真に撮ることで作家にとってしか意味のないものになる。同じ価値観を持たない人には、なんの意味もない、なんでこんなものを撮ってるの?という代物になる。
ーー使用目的がより隠される。
よりわからない、作家というものが用いる写真になる気がします。もはやモノの強さはない表象。
ーー普段街で撮るときに同じ感覚で撮るということはないんですか?
なんでそれを撮るの?とかなんでその間で撮るの?ってことはギリギリあるんですけど、やっぱりやるのは難しいですね。できたらいいんだろうとは思います。例えば、俺のなかでは中平卓馬は、そういう意味のなさに向かっている感じがして、すごく憧れるんですけど。
ーーカメラでできることのなかでやっている感じはあります。
手数が少なくてふらっとやってきてできるのは仙人クラスだから。俺はそうじゃないやり方でやるしかないかなって。中平卓馬の後期あたりは、ひとつの到達点だから、そこをなぞってもしょうがない。
ーー中平卓馬は「図鑑」である、というパッケージングをして見せたと思うんですけど、宇田川さんの場合はどうなると思いますか?
それはどうですかね、なんとも言えないんですよね。正しさをどう求めているか、みたいなところではあるんですけど。
ーー言い切らないでいるのは、やっぱり正しさに疑問符をつけているから?
そうですね。本当かな?っていうのがずっとついてまわる。それを言い出すと、俺が作品をつくっていいの?まで戻っちゃうから、それをぐるぐるさせるしかないかな。プロフィールに書くときは、「どうして私は作品を作れるのか?」という問いの分節と解釈を正しく間違えることを作品化している、という言い方をしてます。長いですね。
ーーある時点での間違いが作品になっている。
そうです、そうです。そのひとつとして私的な使用があったりします。
ーーじゃあ間違い切れなくなったら終わり?
もう……正しい!ってなったら終わりですね。
宇田川直寛/Naohiro Utagawa
1981年生まれ、2004年中央大学法学部卒業。主な受賞歴に第8回写真「1_WALL」ファイナリスト(2013)、キヤノン写真新世紀佳作(佐内正史選、2013)「Foam Talent Call 2015」(2015)。主な個展に「DAILY」(明るい部屋、東京、2010)、「テーブルトップ」(Guardian Garden Web Gallery、2014)、「7Days Aru / Irukoto」(Goya Curtain、東京、2016)「Assembly」(QUIET NOISE,東京、2017)。グループ展に「Foam Talent」(De Markten、ブリュッセル、Beaconsfield Gallery、ロンドン、2015)など海外のほか、国内では「どうにもならない 」(TALION GALLERY、東京、2017)などがある。
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