『セルフィー』のセルフィー|制作の背景について
前提にしているのは、誰もが写真を撮っているという現代の状況です。スマホを持っていれば、まったく撮らないというのはありえないんじゃないでしょうか。回数、頻度ともにこれまでになく撮っています。フォルダには、無数の思い出やメモとしての写真があふれているはず。なんなら自分の意思とは関係なく撮らされてもいます。例えば、オンライン上で登録を行う際、身分証明として免許証やパスポートを撮影し、送信させられる。それは誰もがカメラを持ち、いつでも撮影できることがあたりまえとされているからこそ可能なシステムです。撮るという行為は、ものすごく日常に溶け込んでいる。そこには「撮るわたしたち」がいる。
撮ると同様に、撮る主体となったわたしたちもあたりまえで透明な存在となりました。そのとき、何か例外的で複雑に見える行為をしているのが写真家たちなのではないでしょうか。撮る主体となったわたしたちは、撮るという行為だけでいえば、もしかするとそういった写真家たちよりもたくさん写真を撮っているかもしれない。じゃあ写真家といえるのかというと、そうでもない。しかし、撮っている。この行為と主体のバランス。考えてみれば変というか、わたしたちの身に何も起こっていないことはないんじゃないかと思うわけです。そういった現在において、「わたしたち」と「写真家」という存在をあらためてつなげて考えてみようと思います。
「今日において、写真家とは何か?」という問いを立てました。これが写真家だ!という定義や枠組みを示したいわけではありません。問いたいのは、撮る行為がいかに撮る自己を形成し、撮る自己がいかに撮る行為を形成するのか、ということです。そこで「わたしたち」と「写真家」が同じラインに立つことになります。大きくいえば、撮る主体であるわたしたちとは何か、何をしているのか、ということを省みるような問いとして示すことができればと思っています。そして、撮る行為には何ができるのか、どんな自己になれるのかを考えていきたいのです。
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今回とくにことわりもなく「写真家」という言葉を使いました。写真家という存在もまた自明ではなく、日本語独自の質感やこれまでの業界の構造によって形づくられたものであると思います。写真を主な表現として使っている作家とか、単に撮る主体としてもよかったのですが、そうともいい切れない感じもあり、ひとまず「写真家」と気持ち的にはかっこ付きで使うことにしています。「写真家」という言葉が、意味をなしていることについても考えていきたいと思います。
「わたしたち」にとっては、そのような事態はあまり関係ないかもしれません。あるいは、まったく別の文脈から写真表現を使う作家も存在しています。日常に存在する写真と美術として存在する写真と、そのスペクトラムのなかを漂う写真を扱うのが「写真家」でしょうか。そうだといいのですが、現状は自在に立ち位置を変えられるほど、自由ではない気もします。「写真家」というものがもたらす価値や規範とは何でしょうか。それは何によってもたらされているのでしょうか。
あらためて外側から眺め、考えるために、今回は撮る行為と撮る自己という観点からはじめてみました。「わたしたち」と「写真家」とある種の「作家」とを区別しながらも、かといってまったく違うものとせず、捉えてみています。この問答が、さまざまな論点を立ち上げ、何か解放をもたらすものであることを願っています。
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今回は、上記のような問いによって生まれるであろうテーマを探るため、撮る行為と撮る自己について何が起こっているのか、4名にインタビューをしました。現在から過去へと振り返り、また現在へ戻るというような形で、何が自己をつくりあげてきたかを問うています。そこでは、現在まで続く写真史を牽引する姿を見るとともに、やはり別の何かとして自己を規定する姿も見えてきます。その語りは、悩みながらも進み続けるなかで感じた正直な言葉の数々であふれるものとなったと思います。
共通しているのは、撮るという経験そのものについてメタ的に捉え具体化しようとしていること、撮影から作品までの過程で複数の自己が存在していること、でした。前者は、写真がインスタレーションの形式につながっていく土壌となっており、視覚表現以上の広がりを持ち、「写真家」というラベルを貼り直すような作業になっています。後者は、PhotoshopやLightroomといったツールの使用が一般的となり、その経験もまた世界の認識を変え、自己を変えうる工程となっています。
また個別には、外に出られない、被写体に出会えないというコロナ禍がもたらした状況が、大きな変化をもたらした、という話もありました。撮るにあたって、出会えないというのは、重大な出来事です。フィルムからデジタルへ、紙からスクリーンへと移行し、それがあたりまえとなった現在において、あらためてメディアという観点からでは捉え切れないものがあるのだと感じました。
市場という場に、作品として写真が取り扱われることについて触れる話もありました。これは、写真は美術か否かという評価する者としての視点ではないことが重要です。すでに市場はあり、そこにどのように関わっていくか、というようにスタンスや方法が問われています。撮る行為と撮る自己にも影響を及ぼしているのも事実で、そのとき必要なのは市場とは関係ない場所でも制作ができるということではないでしょうか。これはSNSがある状況ともパラレルになっているとも思います。
インタビューについては、シリーズとしてさらにたくさんの人に話を聞いてみたいと考えています。また、ここから抽出したテーマは、あらたに実践や論考として取り組んでいきます(「Practice」という名前でやっていく予定です)。撮り続けるために必要なことを考える場になったらいいなと思っています。
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僕は、写真家という人々の存在や行為に憧れを持っているのだと冊子をつくるにあたってあらためて気がつきました。外に出て、あらゆる出来事に反応し、世界を享受する。そのような身体性を、記録として残す。写真それ自体は何も語らないにもかかわらず、世界はこうであると示す。この途方もない作業に取り組む人々に追いつきたいという気持ちがあります。撮るという行為は、考えられているよりもたぶんもっとダイナミックで、撮る自己は、自分自身が思っている以上に固定的なものではないのだと思います。それは手元にあるスマホで撮り続ける「わたしたち」にも、これからも撮ることをやめないかぎり、同じことがいえるでしょう。
また、個人的にいろいろなことが重なって精神のバランスを崩し、コロナ禍が非日常から日常になっていくのを眺めたまま何もできず、執筆と編集をおやすみし、久しぶりの作業となりました。その過程で、何者でもなくなってしまったような解放感と不安感があり、その経験が少なからず今回の冊子に作用しているのは間違いありません。実際、お前誰やねん、という感じもあるので、本稿を書いてみました。
撮るという行為から自己を探るすべての人々にとっての「セルフィー」として、何か発見をもたらすものとなっていますように。
本冊子は、Tokyo Art Book Fairにて10/27(木)より販売予定です。ぜひお手に取り、ご覧ください。
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