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vol.6 子どもに教え、教えられて

[NOSAIぐんま 2005 SPRING vol.83(4・5月号) 掲載]

 中学2年生(当時)の姪っ子が「英語がしゃべれるようになりたい」と言うので、通信教育の教材を取り寄せました。教材は独習用ですが、ひとりで練習を続けられる子供は多くはありません。「私もやりたい」とうそぶいて、二人で一緒に練習することにしました。

 今では、週に何度か、姪っ子と声を合わせて英語の物語を読むのが習慣になりつつあります。初めはDVDの映像や音声についてこられなかった姪っ子も最近、なんとか追いつけるようになりました。本人も上達を感じるせいか、声も表情もいきいきとしてきました。

 練習を終えたある午後、姪っ子が唐突に「おばさんは勉強が好き?」と尋ねました。私が「好きじゃないよ」と答えると、けげんな表情を浮かべます。彼女は、私が大学を2度卒業し、今は社会人大学院に通っていることを知っています。私が本を読んだり考えたり、パソコンで何かを書いたりする姿をいつも見ています。「おばさんは勉強が好きな人」と思っていたのでしょう。

 私はつけ加えました。「好きではないけれど、勉強することでいろいろなものが手に入る。だから勉強しようと思うの」と。分りにくいかと思い、「たとえば、お金とか地位とか…」と補いかけて、はっとしました。

 確かに、私たちは学びによって知らないことを知り、分らないことを分け、できないことができるようになり、自分の可能性を広げ、その広がりをとおして、いろいろなものを手に入れるようになります。それはモノやカネであったり、名誉やステイタスであったり、人間関係であったりいろいろです。私も学びによって、いろいろを手に入れました。

 けれども、姪っ子に「お金とか地位とか・・・」と言いかけた時、私の無意識が「それだけではないよ」とささやきました。学びは知らなかった自分を見つけ、新しい自分を創り、内なる自分を育てていく手伝いをしてくれます。そして、育ち続ける自分を感じる喜びを与えてくれます。私はその喜びを感じたくて学んでいます。その喜びを伝えたくて、教育家という仕事をしています。

 姪っ子と語り合いながら、「なぜ、私は学ぶのか」「なぜ、教育家でいるのか」を知りました。姪っ子はその日、私の先生になりました。

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