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娘の築いた時間と父

「おとうは出てこないで」

小学二年生の娘は、その体に不釣り合いな大きな掃除機を抱えて、せっせと掃除に励んでいる。自分がこれから使うところだけ。

秋晴れの清澄な空気がカーテンレースをほどよく揺らす。ずっとそこに居座るように見えた入道雲はいつの間にか姿を隠していた。

娘が友達を家に招待した。

学区内の保育所に入れず、彼女は誰も友達のいない小学校に入学した。周りは既に友達のコミュニティが出来上がっているなかで、他人なのは彼女だけだった。

学区が違ってもすぐに友達はできるから。大人はみんなそう思う。いつの間にか出会っていつの間にか友達になった、のだ。振り返ってみれば。

けれど振り返られるほどの年月を持たない彼女には今この時しかない。

学校に行こうとすると足が止まって涙が出る朝。夜には行けると笑顔で言えるのに、朝になると、起きているのに、どうしても行けない学校。
その度に僕は職場に連絡を入れた。

もしかしたら娘は僕に小さな休暇をくれているのかもしれない。そんな訳はもちろんないけど、そう思えば、小さなゆとりがほんのりと生まれる。

それならいっそうゆっくりと。

普段は機械で済ましてしまうコーヒーを、手動のミルで一緒に挽き、ドリップポットでゆっくりと注ぐ。ふわっとたちこめる香りを一緒に吸い込んだ時間が懐かしくもある。娘はそんな時間を挟むと、不思議と学校に向かうことができた。

家のチャイムが鳴って彼女は友達を嬉しそうに迎えた。来週するらしいハロウィーンパーティの準備をしている。机には友達の人数分のハサミをならべ、折り紙と色鉛筆もせっせと準備していた。それは行き過ぎた健気さにも見えたし、もてなし意識の高い妻の影響にも見えた。

好きな男の子ができたらしい。と言うと、娘を持つ職場の先輩からよくそんな平然としていられるなと言われた。想像するだけでも嫌だ。手塩にかけた娘を知らない男に。と彼は笑いながら憤慨した。

てしお。てしお。耳にしても、あえて口にしてみてもしっくりこない。パスタを茹でる時にかけるひとつまみの塩少々。僕の場合はそれくらいがしっくりくる。だって頑張ったのは娘だから。強くなったなぁとしみじみ思う。全ての悲しいことを代わってやりたいと思うけど、実際のとこ、親の出来ることなんてほとんどない。

いつの間にか涙を見せることなく学校に行きはじめ、僕も職場に遅刻をすることは減った。彼女がじぶんで築いた。振り返ることなく今を何度も繰り返して。リビングからは幼い笑い声が響いてくる。

「友達が来たら、おとうは出てこないで」

リビングを追いやられたから書いている文章が感傷的になったのは、一昨日から初めて読んでいる江國香織の本のせいだ。

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