蓮ノ空って結構”ごっこ遊び”を要求してると思うんです。

 こんにちは。黒鷺です。

 最近なんとなーく思ってるんですけど、蓮ノ空のコンテンツのキャッチコピーってあるじゃないですか。

 これって、結構な叙述トリックだと思うんですよね。
 文章だけ読むと、あー実際の時間の流れの中であたかもキャラクターたちが存在するかのように作品を作っていくことで、視聴者は喜びや悲しみを共にして、一緒に青春できるんだな~、って思うでしょう。
 実際、自分自身も最近までそう思っていました。

 でも、よくよく考えてみると、これ、変なんですよ。
 因果関係が無いんです。

 「同じ青春」とか「リアルタイム」、「1年365日」みたいな、似た文脈で使われがちな言葉が並んでいるので、あたかも因果関係があるかのように見えるんですけど、同じ時間を生きていることは気持ちを共有できる理由にはなりません。

 同じ時間に生きていることが、同じ気持ちを共有できる理由になるという命題について、蓮ノ空の活動記録内に明確に反例となり得る描写がいくつもあります。
 例えば、同じ時間を生きていることで気持ちを本当に共有できるなら、綴理と梢はすれ違うことはなかったはずです。お互いの喜びも悲しみも、ずっと一緒にいたのに伝わってないんですよね。
 また、仮にそれが可能であると仮定するなら、「気持ちを繋ぐために歌う」っていうテーマと衝突しちゃったりもします。


 もうちょっと言えば、「彼女たちと喜び、悲しみ」っていうテーマ設定って、たぶん現実とだいぶ乖離していると思うんですよね。
 単純な話、私たちは当事者ではないので本当の意味で彼女たちの気持ちは分からないというのはあるんですけど、それともうひとつ、出来事に対する認識において明確に差があるということが挙げられます。

 例えば、活動記録について。
 私たちはそれを読み物として読んでいる人が大半だと思います。しかし、ここで書かれていることを「あたかも現実に起きていること」として捉える場合、およそ出てこないような感想が散見されるのは事実としてあると思います。

 「キャラクターが生き生きとしている」とか、「話の作り方が上手い」って感想って、それを現実に起きていることとして捉えていたら出てこないはずなんですよね。だって、これは創作物ではなく、現実に起こったことのはずだから。

 また、別の観点から言うと、活動記録は正確には「活動記録」ではありません。例えば、「せっちゃん」がセラス・柳田・リリエンフェルトだと判明した場面は、「蓮ノ空の活動記録」として24年の10月に載っているはずがないんですよね。だって、あの時期のあの場所に、蓮ノ空のメンバーはいなかったはずだから。じゃあ、誰が記録したの?ってなるんですよ。
 「活動記録」という、何者かがリアルタイムで綴ったものじゃないんですよ。明らかに、神の視点からカメラを覗いているコンテンツなんです。

 こうやって考えたら、彼女たちにとっての人生の記録を、私たちは愉快な創作物として消費しているってことになるんですよね。これで本当に、同じ気持ちを共有してるって言えるんでしょうか?

 もうちょっと言うなら、本当に同じ青春を過ごしているなら、「運営への批判」とか出てこないはずなんですよ。だって、これは創作物ではないはずだから。

 フェスライブの回数が減ったりとか、リンクラのゲームに不満があるとか、そういう批判は全部キャラクターに向けられるべきであるはずです。
 回数を減らす決断をしたのは、「蓮ノ空運営」とかいう存在しない概念ではなくクラブの現役生たちであるはずですし、リンクラのカードパワーが上がっているのは姫芽がイグニッションしたり吟子がハナムスビしているせいなので、「製作スタッフ」なるものを想定してあたかもこれらが創作物であるかのように物事を論じるのって、その人がこれらを「現実に起きていることではない」と認識していることの裏返しなんですよね。
 


 こんな風に書くと、蓮ノ空の展開が、「現実ではないものを現実のようだと思わせてくれる」のだという反論があるかもしれません。

 ですが、それが現実かどうかは、「それを現実だと思えるか」という認識を理由としません。
 大谷翔平とか藤井聡太とか、人間離れした超人がいると思うんですけど、彼らの功績が「ありえないレベルにすごい」ものだということは、それが嘘であることを1ミリも肯定しません。

 


 このように考えると、蓮ノ空ってリアルタイムで進んでいることで、それがあたかも現実で起きていることのように描かれてはいるように見えるんですけど、本当にそれによって、「共に喜び、悲しみを共にし、同じ青春を過ごす」ことが出来ているかというと、たぶんできていないと思うんです。

 というか、そういうものとして作られていないと思うんです。たぶん、この作品を「現実に起こったもの」としては作ってないと思うんです。
 むしろ、「現実に起こったもの」ではなくて、全てが作りものだからこそ、それを「共に喜び、悲しみを共にする」という、あの世界の蓮ノ空のこと好き好きクラブのロールプレイをすることで、あたかも「同じ青春を過ごしている」という集団幻覚を見ることこそが、この『Link!Like!ラブライブ!』というアプリの目指していることなんじゃないかなって思います。

 もうちょっと踏み込んで言うと、この作品は「現実に起こったもの」を提供しているのではありません。紡がれた物語を「現実にする」コンテンツです。

 って書くと、すごくラブライブ!作品っぽくなりますよね。起きていることが違ったとしても、そこにある感情が重なることで、「描かれた物語」が現実のものとなる。ラブライブ!ってそういう作品だったと思います。

 蓮ノ空のストーリーが本当に現実に起きた事なら、フェスライブだけやってリアルライブなんてやらなくていいと思うんですけど、これが「現実ではないものを現実にする」ものだからこそ、現実の方にフィクションを降ろしてきて、二つの接点となる場所が必要なんですよね。

 実際、現実の方に降ろしてこないと、本当の意味で「共に喜び、悲しみを共にする」ことはできません。なぜなら、それらの感情はすべてフィクションに対して向けられるものでしかないからです。

 フィクションである限り、それがどれだけ真に迫ったものであったとしても、それは「作られたもの」であるという枠組みから逃れることはできません。
 だから、その物語の中で「何を思ったか」を現実から出力されるものとして再構築するしかないんです。
 102期生の卒業という出来事に対して、私たちが本当の意味で在校生たちと「共に喜び、悲しみを共にする」ためには、現実の102期である花宮初奈、佐々木琴子、月音こなが卒業して同じ痛みを味わうしかないんですよね。


 ですが、全ての出来事がそのように感情の再構築が行われるわけではありません。
 確かに、藤島慈の復帰や通信量レイド、104期生の加入など、そういう場面は定期的に訪れましたが、活動記録のすべてがそうだったはずではなかったはずです。


 あなたは、蓮ノ空がラブライブ!で敗れた時に、自分の人生の全てが無価値だったと突き付けられたような思いをしましたか?
 蓮ノ空とこれからの運命を共にして、大切な人の「生きている価値」を背負うほどの覚悟をしましたか?

 できないんですよ。
 どれだけ活動記録が胸に刺さる内容で、どれだけ心を動かされたとしても、私たちはそこにある感情に対して一切干渉することはできないんですよ。

 だって、それはもう既に起こったことだから。そして、それがフィクションであるから。

 でも、それをフィクションじゃないんだって思い込んで、みんなでそれを現実なんだって騒ぎ立てて、そして真実として後世に語り継いで残すことで、それは結果として現実になるんだと思います。

 1人にしか見えていないなら幻覚だったとしても、全ての人間に見えているならそれは幻覚じゃないんです。(「世界」とは人間に認識できるものを指す~みたいな論説には、自分はどちらかというと否定的なんですけど、ここは一旦そういうものとして)

 歴史の授業で、国家の成り立ちとか習ったと思うんですけど、あれって要は「古文書にそう書いてあったから」それを事実として教えているだけなんですよね。
 日本書紀とか古事記とか、天武天皇が再編してるんですけど、要は天武天皇が「事実だとした」ものが歴史として教えられてるんですよ。
 じゃあ、天武天皇が「律令国家から蓮ノ空があった」って言って、それが古事記に載ってたら、蓮ノ空は歴史的事実として教科書に載ります。

 だから、蓮ノ空の活動記録を見ている私たちが、それがフィクションであるにも関わらずあたかも現実かのように振る舞うことで、それはいつか「事実」になるんですよね。

 って考えたら、だいぶ高度なロールプレイを要求されてるなって気がしてきませんか?
 フィクションであることを心のどこかで分かっているものに対して、それが現実であるかのように振る舞おうとすることとか、現実にそれがあったかのように心を動かすとか、そういうのって小さいころにやったおままごとの延長でありながらも、相当ハイコンテクストな遊びだなって思うんです。

 こうしたロールプレイを、数えきれない程の人間が年単位で共有していて、それが明確にフィクションである証があってもなお続いているって、異常だと思うんですよ。

 TRPGとかだったら、自分の作ったキャラクターになりきる形なので分かるんですけど、蓮ノ空って、明確な「他者」と「他の場所」に対して、世界観と場所と人物を構成して、「そういう世界と繋がっている自分」を演じることを要求しているし、私たちは気がついたらそういう遊びの中にいるんですよね。

 本当に、恐ろしい時代になったなあと思います。


 ですが、そうしたおままごとの道具である蓮ノ空と、ごっこ遊びをする私たちの構築する世界は、現状完成しているというにはすこし積み重ねが足りていないように思われます。
 なぜなら、私たちは102期より前の世代を断片的にしか知らないからです。

  知らないから、というと少し実態からズレますね。正確に言うと、知らないことそのものは問題ではありません。103期(と104期)の代で、配信が得意なメンバーが多く加入したことをきっかけに蓮ノ空にハマったこと自体は、ロールプレイとして何ら不自然な所はありません。

 しかし、この世界の中に、102期以前のファンが”ひとりもいない”ことは、明確に欠落だと言えます。
 一応、102期の代に藤島慈の離脱やラブライブ!辞退という出来事があったことで、ファンが離れたのだという説明はできるでしょう。
 ですが、本当にそれはひとりもいないことの説明になっているでしょうか?

 オケコンをきっかけに、μ’sしか愛せない亡霊が意外とまだ息をしていることが分かったのは記憶に新しいです。
 あれだけ先代を引き合いに出して叩かれ続けたAqoursにでさえ、後輩を執拗に嫌うファンはいます。
 虹ヶ咲やミュージカルは、キャストが変わることによるファンの変動は少なくはありませんでした。

 分かりやすいところで言うと、Liella!なんかは「〇期世代の方がよかった」という感想はよく言われています。

 蓮ノ空の内部でさえ、103期体制から先に進めない人はいます。

 だったら、102期やそれ以前にも、そういう人がいて然るべきだと言えます。
 誤解がないように断っておくと、「批判されるべき」「叩かれるべき」ということが言いたいわけではありません。そうしたネガキャンは表層的に見える結果でしかなく、本質ではありません。

 102期、101期やそれ以前のファンがおらず、そこから先に進めない人もいないということは、103期がこの世界において未だに「始まり」であり、変化による痛みを伴わないものとして受け入れられてしまっているということを意味します。
 実際にはそんなはずはないのに。

 蓮ノ空が本当に存在するものとして受け入れられており、この世界のなかで「そういうもの」として存在しているなら、103期は「私がたまたま知ったタイミング」であるべきです。
 103期Fes×Lecがあるのなら、102期から進めないオタクを救済するためを残すために102期Fes×Lecがあってもいいはずです。(まあこの取り組みは、3年生のいない103期体制でしか実現できないというのが実態でしょう)

 103期が卒業した後ぐらいになると、こうした状況も変わるでしょう。
 「103期初めから応援していたオタク」は所謂ラブライブ!老人となり、104期、105期、106期から蓮ノ空に触れ始めたオタクと相対化されることによって、「始まりは103期である」という事実があくまでコンテンツとしての話であり、蓮ノ空と私たちとの関係性において何ら意味を持たないものとなるのでしょう。
 



 そして、ラブライブ!大会及び、それに付随する私たちの視点が一様ではないことも、まだ蓮ノ空が本当の意味で現実にはなっていないことを端的に表していると考えられます。

 純粋に応援している人は、確かにそれが「現実である」とするために必要な役割を果たしていると言えるでしょう。
 ですが、ラブライブ!に関して、私たちはそうした視点だけで見ているわけではないはずです。

 例えば、「ラブライブ!」で優勝するためには何が必要なのかを、過去の描写や他のシリーズから読み解き、そこから蓮ノ空の未来を論じる人がいると思います。
 しかし、それが成立するのは、それが「人の手によって作られた物語」であり、ラブライブ!が「主人公グループの物語内のマクガフィン」であるからです。

 キャラクターがこうなったら優勝する、これに気付けてこの境地に至れば勝てる。そうした見方は、蓮ノ空が「現実には存在しない」ことを前提としています。
 なぜなら、「ラブライブ!的な勝利条件を満たしたグループ」は、焦点が当たっているグループだけではないからです。
 「こうなったこと=ラブライブ!優勝」の図式が成立するのは、そのグループに焦点が当たっており、その他のスクールアイドルには焦点が当たらず負けるための引き立て役として扱われていること、つまり、「物語」である場合だけです。

 また、「ラブライブ!的な勝利条件を満たしたグループ」が優勝するという前提がそもそも「物語」的です。
 なぜなら、優勝するのは当然「いちばん得票を集めた」グループであり、「ラブライブ!的な勝利条件を満たした」ことはそれに相関関係は見られたとしても、優勝とイコールで結ばれるはずがありません。

 余談ですが、スーパースター!!以降はこうした実力勝ち、実力敗けがかなり頻繁に描かれるようになり、そういう意味での「物語的」な図式だけで描かれているわけではなくなったのだとも思います。


 また、単純に乙宗梢の涙を見てみたい、という人が一定数いるのも事実だと思います。夢破れた後の梢の物語を見てみたい、それはきっととても面白い、といった具合に。
 至極自然な感想だと思います。彼女は未熟で儚くて脆いところが好き、その弱さが魅力であるって、そういう認識は私にもありますし、私も梢の好きなシーンを挙げるとだいたい泣いていたり絶望しているシーンばかりです。

 そして、こうした感想が自然と出てきて、それが非倫理的なことだとされないのも、彼女が結局はキャラクターであり、作られた存在だからです。
 現実の人間に対してこんなことを思ったとしても、そうした発言は憚られるものだと思います。ですが、彼女に関してはそうした感想が散見されることから、それは彼女が「現実に存在する人間ではない」という認識があることを示していると考えられます。




 これらの事柄は、蓮ノ空が「現実ではない」こと、よって「同じ青春を過ごしてはいないこと」を示していると考えられます。
 喜びや悲しみは、現実に存在する彼女たちではなく、人の手によって作られた「物語」を対象に共有されていると言え、リアルタイム性が重要視されながらも、その「リアルタイムであること」はそのリアリティに一切影響していません。

 なぜなら、現状多くの人々は、彼女たちを「現実のものとして」応援していると主張していたとしても、その実態を分析し言語化すると、結局それは「現実」ではなく「物語」であると言わざるを得ないからです。

 そもそも、仮にそれが「現実」であったとしたら、「リアルタイムで繋がる」ことなんてできません。
 単純な話、YouTuberと「同じ気持ちを共有してる」って思うことって、相当入れ込んで深く追ってないとできないでしょう?

 「リアルタイムで繋がれる」のは、それがフィクションであり、物語であるから、「繋がっていないときは”存在していない”」からです。
 「繋がれていない」ことに不満を抱くのは、それが「物語」だからです。繋がっていない場所で、彼女たちが「存在していて」そして「歩みを進める」ことが許せないからです。



 それでも、私たちは彼女たちがあたかも現実にいるかのように振る舞い続けます。
 この作品も、あたかも現実にいるかのように振る舞うことを要求し続けます。

 「あたかも現実にいるかのように振る舞うことを要求する作り手」と、作り手によって作られた「物語」を、その主張の破綻を無視して現実なのだと声高に主張し続ける私たち。


 蓮ノ空という「物語」は、この世界に存在し、私たちは繋がっている。

 そんな世界観を作る”ごっこ遊び”にどうしても魅せられてしまうのは、言語化して見れば歪で、ハイコンテクストで、そして視点が変われば今にも崩壊してしまいそうなその関係性の”脆さ”や”儚さ”に、彼女たちの紡ぐ時間のかけがえのなさを重ねてしまうからなのでしょうか?




 こんだけ書いといて特に結論とか主張はないです。

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