私たちには旅が必要だ。星野道夫『【新版】悠久の時を旅する』
文・写真 小松麻美
一枚の写真が人生を変えることがある。
星野道夫は大学一年生のとき、東京・神田の古本屋で洋書『アラスカ』(ナショナル・ジオグラフィック・ソサエティ,1969)を手にし、そこに収められた小さなエスキモーの村の空撮写真に出会う。写真に添えられたキャプションを頼りにシシュマレフの村長宛に手紙を出すと、半年後、「いつでも来なさい」と返事が届く。20歳の夏休み、星野は北極圏の大自然の中で狩猟生活を営むエスキモーの大家族の家で3カ月を過ごし、帰国後、写真家になることを決意する。
星野道夫の代表作が収められた写真集『【新版】悠久の時を旅する』(クレヴィス,2020)には、アラスカとの出会いから急逝までの24年にわたる、極北の自然に魅せられた写真家の旅の物語が詰まっている。星野とシシュマレフの村長が交わした2通の手紙で物語の幕が上がるのがなんとも印象的だ。
世界がコロナ禍に見舞われて早3年。また、春がやってきた。草木が芽吹き、街ゆく人びとの服装も軽やかだ。コロナ以前と同じように季節はめぐっているはずなのに、なぜか心は晴れない。
そんな折、ひさしぶりに写真集を開いた。遥か遠い視線の先に夕暮れに染まった山並みが悠々と連なっている。足元に広がるのは小さな葉っぱたち。まるで粉砂糖をまぶしたかのような霜に覆われながらもたくましく繁っている。黄金色の草むらからは星野が追い続けたグリズリーが顔を覗かせる。
人生の節目節目で星野の美しい写真と文章に心救われ、癒され、励まされてきた。ページをめくり、想像力を働かせれば、遥か遠いアラスカの地を星野と共に旅することができる。雄大な自然の営みを眺めていると、悩みや不安がちっぽけなものに思えてくる。そうか、いまの私には旅が必要だったのだ。
写真集の帯には、「大切なのは、出発することだった。」という星野の言葉。「思い煩うな、心のままに進め」。こうしてまた、星野道夫の言葉にそっと背中を押される。旅に出よう。たった一度のかけがえのない一生を生きるために。不思議と心が軽くなり、元気が湧いてきた。