時代の扱い方1
愛想ではなく、社交ができるようになると、世界は軽くなり、楽しくなる。しかし、社交は愛想とは異なり、一定の距離を保つものだ。社交は一過的な関係であり、そこには特定の好意や熱量、深い意味の伝達は存在しない。ただの広域的な挨拶のようなもの、あるいは国際化社会における儀礼的な交流といえる。
日本社会では、社交よりも愛想や親密な関係が重視されがちだ。しかし現代では、ひとまず愛想があってもなくてもよく、社交と親交の間に幅を持たせることが求められているだろう。しかし、そのような感覚は日常の中でなかなか教えられず、ネット環境に対応できずに旧来の価値観に戻ってしまう。
その鍵となるのは、関わりたいという意思の「ある・なし」を表現できるかどうかだ。特にインターネットが広がった社会では、そのような意思に基づく表現を持たなければ、円滑なコミュニケーションが成り立たなくなる。要は、誤解を招くような投稿はしないように意識することで、面倒な絡みも防げる。相手がいるものなので、セッションする気もないのに反応を求めてしまうことは、避けるべきことだろう。もしネット上に、うまくいかない人ばかりが集まってしまえば、人々の健全な社会生活も、インターネットの健全な進化も期待できない。
SNSは本来、関係が希薄だから気軽に発信できる場だったと思う。しかしそのような場として扱えない人々が多くなれば、ビジネスや政治的な利用以外には、誤解をうみ摩擦をうむ汚れた場所になってしまう危険性もある。いや、なっている。かつてSNSが持っていた希望的な明るさは、そのどちらでもなかったように思える。
では、健全な社交を育むにはどうすればよいのか。まず、「他者」と接する機会を増やすことが重要であり、文学がその助けになる。実際の生活では気づきにくいことも、文学を通じて発見できることが多い。人は成長すると、他人に疑問を投げかけられる機会が減り、修正のきっかけを得づらくなる。文学が他者の視点を知る手段となり、コミュニケーションの訓練になる。
文学を読むことで、自分の考えをはっきりと捉えることができる。これは会話によるコミュニケーションよりも、短編小説などを多く読むことで、自分はこう思うなどと感じる機会が増え、考えを引き出す習慣が身につく。対面の会話では、考えがあっても表に出しづらいが、読書ならその壁がない。
電子書籍が普及した現在、さまざまな短編に触れることができる。小説ははじめ自分の好みがわからないものだが、最後まで読めたものが増えることで、自然と自分に合った作品がわかるようになってくる。短編小説はそういった初動に適している。
ネット・デジタル化で開かれた社会に対応していくための文学。単に「他者を疑う」のではなく、「言葉を疑う」力を持つことが重要だからだ。信じられる言葉を無批判に受け入れるのではなく、これは本当にそうなのか?と考えられるようになることが、自分を見失わないための手がかりとなる。商業メディアからやってくる言葉は、日本人を救ってはいない。むしろ溺れさせている。
また、メディア論を学ぶと、情報の扱い方が見えてくる。文章は二度読むこと、現実に置き換えられる時に再確認することが大切だ。どんなに優れたシステムでも、構造を理解せずに流されてしまえば、ただ支配されるだけの存在になってしまう。都度検索をすればいいのではなく、予習と復習を怠ると知識は表層的なものにとどまり、実地的な判断力には結びつかない。
現代のコミュニケーション論は、人々をシステムの一部として機能させる形になっている。効率的な情報伝達や指示の明確化が主な目的となりがちだ。しかし、本来のコミュニケーションはそうではなく、内面を他者に伝えたいと思うときに言葉以外の表現も立体的に駆使していく。自分の身体や感覚を使いこなすセンスの問題でもある。挙動や世界の捉え方の癖を理解し、それを表現することが、豊かな関係性を築く鍵となる。
各人が異なるから、まとまりが必要になる。似たもの同士ばかりが集まると、その意識すら希薄になり、むしろ閉鎖的な価値観を助長してしまう。
「他力」には現実に逆らわず順目にとらえようとする感覚がある。他人の力に頼るというより、現実の力を利用する感じが含まれてくると思う。すると自力には、現実と戦う感じが含まれてくる。そういった理解の元に、東洋的な利他の社会は、一人では生きられない世界の仲間として、他者のマイナスをカバーしあう形をといたように思える。困った時はお互いさまという関係の中にいたら、他力され、他力し、になる。社会に逆らわないでいることは、現実に逆らわないでいることにもなる。余裕が出たらボランティアや還元をするという可能性の問題ではなく、生に必要なことで困っている人に手を差し伸べる現場的なものだ。
個人の目線では、現実に悪いことも良いことも起きるが、現実は悪でも善でもなく、ただそこにあるものだ。ネットを通じた繋がりが危ういだけのものなら、ネットに互換していないのだ。自分も気付かず悪さをしていて、気付かず悪さをしている他者が理解できておらず、何も判断ができない状態だ。私たちは現実をフラットに捉えられるような理解をし、それによって共に生きる方法を模索できる。
規定ではなく共に。効率や指示に偏りがちな現代社会において、大切な共存を手に入れるための態度が忘れられている。人間は150人くらいと繋がれるといわれるが、顔が見え、お互いを支え合いながら生きるレベルでは、おそらくそれでは多すぎる。ネットは社交の場、誤解を与えないような接し方で繋がっている場なのだ。
スケールによってどのように関係していくのか、その態度の変化がある。そういった幅を持つことが、社会を健全に保つ鍵となるのだ。