人間
僕たちは、もはや「普通の人」がわからなくなっているのかもしれない。小説には、ある程度予測のつく普通の人が登場する。しかし、画面に映し出されるのは、際立った人物ばかりだ。そして、その際立ちに憧れるのが、どうしようもなく普通の人のように思える。
SNSで鬱憤を吐き出す行為は、ひとまず理解できなくもない。不満や怒りをどこかに吐き出したくなることはあるし、SNSはその受け皿としても使われているだろう。しかし、そのSNSで悩むというのは、何かがずれている気がする。もしSNSがなければ、その悩み自体が生まれなかったのではないか。自爆的な問題は、そもそも生み出さないことが第一ではないか。鬱憤を吐き出すという行為も含めて、問題の根源は外部ではなく内部にあるように思える。
インターネットには、言葉と意図があふれている。そこにあるのは「語ること」ばかりであり、静かな存在や静かな人は埋もれ、目立つ言葉ばかりが可視化される。インターネットを通して世界を見る限り、私たちは「語られるもの」しか認識できず、「語られないもの」は、存在しないのと同じになってしまう。
それだけではない。インターネットは「あの世」を消してしまったように感じる。かつて人は、「知り得ないこと」に対する敬意や畏れを持っていた。「あの世」は知り得ない世界だから想像の余地があり、精神的な拠り所にもなっていた。しかし、インターネットは「すべてが知り得るもの」であるかのように見えてしまい、その境界線を消してしまったのではないか。
もしかすると、消えたのは「あの世」ではなく、「この世」の方なのかもしれない。現実を忘れるために、私たちはネットを見たり、情報を求めたりしている。外部にある何かを信じることで、現実を遠ざけようとしているのかもしれない。では、私たちは1日のうち何秒、能動的に現実と向き合い、好意的に関わろうとしているのだろうか。あるいは、もっと身近な言い方をすれば、静かだから落ち着けるという素直な状態を求めているのだろうか。
現場が苦しんでいるのに、論理にしがみつき、現場に降りてこない上司や経営者。それは、インターネット時代における私たちの意識そのものかもしれない。情報の中に埋もれ、情報を管理することで問題を解決しようとする姿勢は、現実そのものからの乖離を生み出している。
それは、単なる社会の問題ではなく、もはや「情報接続から逃れられない」という生物的な問題なのかもしれない。情報に接続し続けることが人間の習慣となり、本能に近いものへと変化している。だが、その接続の中で、私たちは何を見失い、何を忘れているのだろうか。
社会の現場は、情報の整理ではなく、現実の実感を求めているのかもしれない。だとすれば、いま必要なのは、「現実に降りていくこと」ではないか。