人生の心とゆとり教育のあとと先

動物化する現代人と現在の状況。それと関連して、「趣味」がこの時代の人間に重要なのだろうと考えるようになっている。そしてSNSとの関連を考えていた。また、「夢」について考えていた。

それに前回の旅先、金沢の生活に感じる仏教観が気になったところで、平安仏教徒の比率が高い3県:岡山、徳島、和歌山県が気になった。そして岡山で見たい展覧会があったので今回行ってきた。

それで、思った。夢は現実B(パラレル)だし、感性でものをみることは夢をみている状態なのだなと。では、現代人の人生について思ったことを書く。


興味というよりも「趣味」だ。「興味がある」に関して、日本の感覚は敷居が高い構造が感じられるので、そこは分けて、別にしようと思う。

それに。「自由に生きること」は、狭い意味で高精度な場合、そうできる人は案外少ない。ただし、状況はかなり準備されているので、ポスト・モダンの条件に合わせるということで、時代を活用すれば各人の生き方をなかなかなところまで「個」にできる。そうできる人でやりたい人は、そうしたらいいのだろうけども、それほど周知されていない。

現在の情報ではしばしば、「私が輝ける仕事」によって人生をつかめる、みたいに語られてしまう。だからそれは一部の人の話であって、通常はお仕事をして、休みの日や仕事が終わって好きなことをしてという2段切り替えをよくできるかどうかが、全体的には重要なメッセージなのだと思う。


もう一つ条件。トゥルース/ポリコレも変形しながらあるけれども、ただこれらはどちらも善悪や正誤の二元的な判断だと思う。学問界はそれとは違った第3の反応をしている。市民レベルでも第3の位置はあるとおもう。およそ循環的で他者とかちあわないような判断だったり、A か B ではなく Aも Bもな感覚があるようだ。 Aも Bも が元々のアウフヘーベンだったのだろうけども。 A か B だと争い、いさかいが活気づくでしょ。

「趣味」が鍵だといっても、国際情勢などの歴史的状況の変化あたりを考えないと予想もなにもないだろうけども、うーん、いったん気にしないで書いてみる。


SNSを振り返っていて、mixi全盛期の後に、リアルな「コミュニティ」ブームがあった。そのブームもそのうちに、講演会などの「興味」勢力が強まった。その時代が今のポストトゥルースやポリコレ・キャンセルの時代を準備したのだろうなと思う。実際には国際情勢だとかがベースだろうけども。

僕には趣味があるので、今一度、ネットを活用して趣味のつながりを持てればと考えた。ただ僕の趣味のチョイスがあまりネットや時代状況に合わせられていないかもしれない。この辺りは趣味であっても、男女比率、年齢などが偏りにくいものが勢力を強めていくのかもしれない。

「趣味で集まろう」的な話はmixiの時からあった。集まるとなんだと。人生の心の部分だ。仕事で趣味で道を突き詰めるだけでは、世間や状況を活かせない。そこは分割されてしまっているから。

話がややこしいと思う。ひっくり返そう。プライベートにおける前提的なコミュニケーションを取るために、『『 世間話でも 』』なんかができるやつは何かなと各人でつかまないと人生の心の部分がうまくいかないのだ。

熱くなれることを持つのは大きなこと。そして現在ではそれで収入を得る場合もある。喧伝されているほど全面的にあるとは思わないので、強引にやると短期的に終わる。しかし以前と比べればだいぶ間口は広がっていると思う。なので一部の人はそっち系で行ける。

それでこれまで書いているように、そうではない人の方が実情多いけれど、そのパターンではどうしたらいいのか、人生は、ということ。

プライベートにおける前提的なコミュニケーションを取るために、『『 世間話でも 』』なんかができるやつ

これが「興味や趣味だいじ!」と僕らがいっているものだろう。80年代までは「昨日のテレビ見た?」だったやつだ。今は以前ほどはない。そして今やネットニュースなどをテーマにしだしてしまって言葉の喧嘩になっている。そっちじゃない。

じゃぁその意味での、興味や趣味でいいでしょうとなるけれども、人生の心の部分であったり、状況に対応するという意味で、興味というよりも趣味の方がいい。実際に興味がない人でも興味あるふりして近づいてくるし、気をつける前に気が緩んで(まされて)いく。それと以前と似た反応で、ネットからリアルに出てくる。「ネットニュースなどを話題のテーマに」これがトゥルース/ポリコレや、現代的な「政治的プロパガンダ」にもうなっている。

実際にその趣味そのものを題材にして『『 世間話でも 』』できたらいい。


こんな感じで考えていたら、ゆとり教育の中にあった「仲」だとかはきたる時代の方向に近かったのだろうなと思う。それ以外の要素では色々と思うけれどもくさくて長くなるのでパスする。

たださっき書いたように、僕が考える重要な要素は「趣味」なので、「趣味」を持つことが育まれていた世代なのかというと、教育以外でもサブカルチャーなどの要素もあるだろうけれども、「趣味」より「興味」に集まる(められる)のを感じる。人生の心の問題というにはあまりに平面的で操作的(される的)で、別に人生どうにかなる場合も少なくないのだろうけども、やや不安になる。


昨今の「大学」の話がもう、それまでの教育観や「大学」「高校」の役割とずれているように思える。これまでの、いわゆるエリート向けの教育と市民範囲の自由のためといった2段の教育から変わってくるのだろうなと思う。エリート的な教育内容も変わるだろうし、それに、人生の心のために、「趣味なども含んだ教育」が市民の知のベースに広がるような2段観の教育はどうだろうか?

このブログで「どうだろうか?」といってもしょうがないのだけれども、僕らは上記のように、そんな人生が少しでも始められる条件を持っているのならば、プライベートにおける前提的なコミュニケーションを取るために、『『 世間話でも 』』なんかができる趣味、をつかんでいきましょうよと。

そうだな、僕だったら「カフェ巡り」「美術館巡り」「地方都市ファン?」「アウトドアアクティビティ」あたりだろうか。

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