共感の孤独


「なぜこんなに、自分も相手も、深掘りした状態で付き合わなければならないのだろう?」

コロナを境に、僕の現実世界での交流意欲は薄れてしまった。それ以前の僕は、人に会うために頑張っていた。孤独が悲しかったからだ。イベントやツアーに参加し続け、「人とつながるための行動」を積極的にしていた。

その頃も今も変わらないことがある。「会おうとしなければ人とは会えない」ということだ。それなのに、なぜ交流しようとする行動をやめてしまったのだろう。加齢のせいなのか、時代の空気に押されたのか──はっきりとした理由はわからない。確かに僕の交流意識は薄れてしまった。別に「どうでもいい」と割り切ったわけじゃない。むしろ、どちらかというと「泣いて帰ってきた」感じだ。

そんなとき、ふと冒頭の疑問が浮かんだ。

「なぜこんなに、自分も相手も、深掘りした状態で付き合わなければならないのだろう?」

本音を語り合うこと、感情をむき出しにして交流すること──今の社会はそれを「共感の時代」と称している気がする。でも、そんなふうに内心をさらけ出してしまえば、ぶつかるのは当然だろう。いったい何なんだろう、このマヌケな風潮は。互いの内面をむき出しにしても、世界が分裂していくだけじゃないか。

かといって「心のガードを上げろ」と言いたいわけではない。むしろ逆だ。もう少し浅いところで、ニコニコしあうだけでいいじゃないか。そんなに自分をむき出しにしなくてもいい。

「知らない人と話してはいけない」という抑えつけを脱し、もっと自然な態度に戻ればいいのにと思う。昔が良かったわけではない。ただ、敵か味方かの線引きや、部族化する社会のあり方は、もう終わりにしないか。


では、自分はどう生きるのか?

僕がそれをやめるとしたら、どんな態度で生きればいいのだろうか。浅く笑顔を浮かべて「何も考えずに」過ごす、という話ではない。それができなかったから、僕は悲しかったのだと思う。

おにぎりを例にしよう。米粒はそれぞれ独立しているけれど、全体としてひとつの形を成している。大切なのは「全体が決めるあり方に自分を変えてしまわないこと」。それぞれが核を持ちながらつながっていく。

「わたしたち」に逃げる必要もないし、「わたしの」と強く主張することも日常に必要ない。ただの人同士が関わり合う。素の自分で生きる。


空虚は果たして埋まるのか?

ただ問題はこれを実践して、生きているうちに僕の中の空虚が埋まるのかどうかだ。それは誰にもわからない。そもそも、僕自身が社会側から何かしらの「召喚」を受けなければ、どうにもならないところもあるのだろう。

「もやもや」は残る。

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