見た目が9割なら、本音の企みが拡大するよな3
内向的であっても能動的であれば退屈することはない。やるべきことは多く、停滞感を脱するためには怠け心を捨てることだろう。
ナッジが不快に感じられるのは、主導権が奪われるからだ。ネットメディアも同様で、個々人の目標ではなく、外部からの目標に入れ替わってしまい、それが人々のストレスになっている。
情報は広がったが、それを受け取る側が追いつけない。人間は過剰に膨れ上がった情報を見破ることができず、情報が肥大化した結果、むしろ人間の方が小さくなってしまった。幅広く膨大な知識を、応用力などであしらうことができなければ、理解に近づくことができない。
ネットPRによって人が集まるかどうかは、結局のところ対象による。大衆メディアを使って社会を改善しようとしても、それは難しい。
そもそも「大衆のさらなる大衆化」が問題を生んでいるのではないか。それを打破せず対処しても、枠の持つアンバランスさは改善しない。この手の提案のほかに、動かせるものがあるはずだ。各人が「他者を卒業」できなければ、根本的な変化は起こらない。
大衆側から見れば、ビジネスは気持ちをわかってくれるものではない。むしろ、気持ちを奪い、利用しようとするものだ。心理的なものも含めて、「契約」「コミットメント」といったトラップが張り巡らされ、人々を囲い込もうとする。
世の中は余計なもので溢れている。流行るものは、それまで特に大きな需要がなかったものだ。つまり、流行も時代性も余計なものだ。世代向けの商品や価値観は一時的なもので、一生ものではない。必ずしもそれは無駄なものとは限らないのだが、問題になってくることは、「隙間なく」余計なものが押し付けられ、その中で明確な意思表示をしなければ生きづらくなることだ。つまり逃げ場を奪われていることだ。
結果的に、意思をはっきりさせ、人や物事を「切る」ことが求められるが、それは消費過多の問題を見逃し、余計な世界で目指す「合理化」にしてしまう。決して自然志向ではない。ビジネスの論理が道徳と経済を混ぜ、強烈な本音をごまかせるだけの建前でありながら、正義の顔をして提示する論理が、社会関係の破壊活動だ。
人間関係も含め、「不要なものを排除する」ことが積極的に推奨されるのは、そもそも不要なものを押し付けられているからだ。余計なものを勧められ、それを断る能力がなければまともに生きていくことができない。こうして、ビジネスは心の破壊も生み出している。
「ファーストペンギン」とは、言い換えれば「人身御供」だ。同じサイクルの中で抜け出せなくなったとき、取り返しのつかないことをして変調を起こす。そして社会的な意識は、その変調が起きればいいのにと思っているようだ。つまり「最大多数の最大幸福」を裏返せば、少数の犠牲で大多数が満足するという論理になり、「(自分以外の)犠牲大事」になる。
ターゲティングは社会に必要だからやるのではなく、仕事だからそのように理由をつけてやっているだけだろう。幸せとは不幸せではないことで、基礎の不足がないことだ。それ以上は、単なる興奮の中毒であり、メディアによって欲望を煽られた結果、欲しくなってしまったものだろう。例えば、それが食べたいと思ったのではなく、それが欲しいと思わされたのだ。食べ物ならそれでも食べるが、そうではない物なら、買った後に興味を失う。それを使おうと思ったから買ったのではなく、欲しいと思わされたから買ったのだ。本音と建前、見た目の裏に描かれているものを明確にすることが、社会にも人生にも必要だろう。
政治判断が増え続けるのは、対立がなければ議論にならないという考え方が根底にあると思う。情報を不完全なままにすることで、「ゲーム」が成立し、誤った情報を与えることで制御側は成功する。そして演じられているのは単一のゲームではなく、複数のゲームが絡み合っている。
不平等は、主導権を奪う論理によって作られる。社会の構造が不平等でなければ、人の上に立つことはできない。人よりも上にという欲望が生み出す態度によって新たな社会を生み出したとしても、結局はろくなものにはならない。
富や欲望の貧困を作らなければ、体制は人々をコントロールできない。皆が満足すれば、誰も言うことを聞かなくなる。「パンとサーカス」の状態に慣れさせ、同時にパンとサーカスに自由を与えすぎないようにする。
また、弱者が生まれる背景には、人情に逆行する結果を優先する社会によって押し出された側面もあるのだろう。優れた社会あるとしたら、結果よりも成熟が優先されるのではないだろうか。そして、自分の適性を伸ばすことが個人のアイデンティティになり、生の快楽とも結びつく。しかし、現代では肩書きが身分化してしまっている。